平野公園の北側に安藤正次(1565~1615年)の墓地を見つけたので、安藤正次を調べてみた。

正次の父親は関が原の直前、関東に下る家康本軍と分かれて守備隊として鳥居元忠、内藤家長、松平家忠等と伏見城に残留し、豊臣軍の攻撃を受けて討ち死にした目付の安藤定次である。
歴史に名前の残るこのメンバーの平均年齢は、当時の平均寿命を上回る55歳、長生きしたので子孫に功名という財産を残して死のうと考えていたのであろう。
五輪の塔の前の石灯籠は寛文12年(1672年)とある

彼らの思惑通り、家康は守備隊を三河武士の鑑と高く評価し、鳥居元忠の子忠政には山形20万石、内藤家長の子政長には7万石、松平家忠の子家信には4万石を与えている。
安藤定次の子正次は、旗本として5千石を受けたらしいが、当時の監察官である目付は、あまり家柄が高くなかったので、これでもかなり優遇された方であろう。
墓には大峰山の役行者も祀られている

正次は、大阪冬の陣の和議がなった後に、大阪城の外堀だけでなく内堀も埋めた工事の奉行でもあり、工事中に豊臣側からは度々抗議の使者がきても、正次は色々口実を設けて聞かなかったという。
その正次は、大阪夏の陣の天王寺での最終決戦で、前田利常の陣に秀忠の攻撃命令を伝達にいった際、豊臣軍が迫ってきたのを見て、真っ先に単騎で豊臣軍に突っ込み重傷を負ったという。
墓の向かい側には樋尻口地蔵

徳川秀忠からは賞され、家康からは医者を差し向けられたが、再び立てないことを知り、この平野の地で自害している。
墓石の下部には、元和元年(1615年)の年号が彫りこまれていたが、400年近く風雨に晒されていても今も文字を読み取ることができるので、相当上質な石材を使っているようである。

しかし、貴重な歴史遺産がこれ以上風化しないよう平野区には何か手を打って欲しいものである。
正次の弟である旗本の安藤正珍も、三河武士の鑑と評価された父親を持ったためか相当プライドが高かったようで、外様大名の池田家と互角に渡り合ったと「鍵屋の辻のあだ討ち事件」に登場している。

ところで紀州徳川家の家老、紀伊田辺3万8千石の安藤直次や、6万5千石の大名になった直次の弟、安藤重信はこの墓に眠る正次の親戚のようである。
| Trackback ( 0 )
|
一度 治右衞門家の現当主と安藤対馬守家の御当主とで御参りに伺いました
町の方々に守られ 嬉しい限りです…
ご先祖の墓が末長く保存されると良いですね。
ところで既にご存知と思いますが、5月9日のブログ記事に書いたように、京都大原宝泉院には伏見城守備隊の血染めの床板を貼った天井が残っています。
http://blog.goo.ne.jp/luckyhillson/d/20070509
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。