第二次アヘン戦争後結ばれた天津条約(1858年)で、キリスト教の布教が認められると、中国内陸部の一般民衆と欧米の宣教師との間の確執や事件が多発するようになります。
天津租界のキリスト教会

中国内陸部の自警団は、次第に反キリスト教団体として統合、義和団と呼ぶ強力な武装グループができ、北京の日本公使館書記官やドイツ公使が殺害される事件まで起こっています。

1900年6月17日、義和団の暴力行為に抗議した日本を含む連合軍は、清国正規軍が守備する大沽砲台(天津から15キロ南)を宣戦布告なしで攻撃、砲台を占領しています。
超高層マンションと租界の教会(右下)

これを知った義和団は、6月17日に天津の英仏米日独5か国租界への攻撃をはじめ、清国正規軍も2日後に租界を砲撃、清朝政府も列強へ「宣戦布告」するなど本格的な戦争状態となったのが義和団事件です。
フランス租界

最初は劣勢だった連合国ですが、6月23日以降ロシア軍を筆頭に各国軍が次々天津租界に入り、29日には福島少将指揮の日本軍が到着、対する中国側の兵力は、2万5千名を数えたようです。
この下が 福島少将指揮する日本軍が通ったルートかも

天津での戦闘は、兵力に勝る中国側がやや優勢だった6月17日〜7月8日の租界の天津停車場攻防戦と、連合国側が盛り返した7月9日〜14日の天津城攻防戦に区分されています。
海河の先が天津停車場辺りか

天津城攻防戦に投じられた連合国の兵力は、1万7千名、最後の激戦となった天津城南門総攻撃の際には、中国側の猛烈な抵抗にあい、近代装備の連合国側の死傷者数が参戦者の1/7に達したと記録されています。
フランス租界の南京路は、天津城の南門外大街に続いている

参謀本部の戦史には、中国軍がこれほど勇猛とは、予想外だったと記録され、当時の新聞にも「清兵なかなか強し」という記事が載ったほどです。
英仏租界の対岸は、義和団戦争後にロシア租界となっています

しかし、5年前に日清戦争で勝利した成功体験を持つ日本は、この天津での戦争の教訓をいつしか忘れ、中国兵は弱いという幻想を持ったまま37年後の日中戦争に突入したのです。
天津の高層ビル

これからの経済戦争においても、同じ失敗を繰り返さないよう、中国をあなどってはなりません。
参考文献:義和団戦争と明治国家 小林一美著
対岸はロシア租界