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昨日の記事の続きですが、今回は出雲大社(かつては杵築大社)の歴史を紹介しましょう。出雲からは、銅剣、銅矛、銅鐸などが多数出土していて、6世紀頃までに、この地で盛んな神祇祭祀があったと考えられています。・・・拝殿(左)の真後ろに八足門(やつあしもん)、その向こうに本殿の屋根が見えています。

日本書紀には7世紀中頃、659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて(もともとあった)「神之宮」を修造させたとあります。従って673年(天武2年)頃に創建されたとされる伊勢神宮より出雲大社が古いことは確実でしょう。・・・八足門の中には入れません。

素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇を退治した神話が古事記・日本書紀にあることから、中世には出雲大社の祭神が素戔嗚尊と解釈され、毛利綱広が寄進した銅鳥居(1666年)にも素戔嗚尊とありますが、正しくは素戔嗚尊の直系子孫とされる大己貴神(おおあなむちのかみ=大国主神)です。・・・八足門の右側に続く東回廊、その上にあるのは観祭楼

天武、持統天皇の時代には、神事は出雲大社(大己貴神=大国主神)に、政治は皇孫(天皇家)に分けることが決定され、海に太陽が沈む出雲の対極の場所として、海から太陽が上る伊勢に伊勢神宮(天照大神)が造営されたと言われています。・・・東側の瑞垣越しに見える本殿(中央)

ところで、古代日本語では、夕陽の沈む西のことを「夕つ方(も)」=イツモ、東は「朝つ方」=アズモ(アズマ)と発音していたそうで、出雲はイツモ(西)の当て字という説もあるようです。・・・手前は天前社、その向こうの屋根が御向社、中央が本殿

このことから出雲の「大国主神」は、日没から日の出までの幽事(神事)を主宰、「天照大神」は、日の出から日没までの顕事(政治)を主宰するとされていました。・・・左から天前社、御向社、本殿

千家が主宰する出雲大社教は、その教理で顕幽を一貫して生死を超えた永遠の生に生きる道を教えるとし、死の問題に解決を与えた唯一の神道であることを誇っています。・・・本殿の北側

奈良時代までは、この政治は皇孫(天皇家)、神事は出雲大社という体制が機能していましたが、平安期に藤原氏が台頭すると、摂関家が政治を主宰、天皇家は伊勢神宮での神事を主宰すると変化し、出雲大社の地位が低下したようです。・・・彰古館建物は大正3年(1914)に出雲大社全体の宝物館として造られたもの。

さて、大己貴神(大国主神)による国つくり神話は、「少彦名神」の協力による部分と、海上からきた神霊「大物主神」(大和三輪の大神神社の祭神)の協力があったとされたことから「大物主神」は「大国主神」と同体という説があります。・・・瑞垣の西側から見た本殿、本殿の左は筑紫社

また大国主神を訓読みしたダイコクは、ヒンズー教を源とする財福と食物の神「大黒天」と通じることから大黒天とも同体という説も支持されてきています。

参考文献:出雲大社 千家尊統著



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