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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



太平洋戦争中の航空特攻を描いた映画「永遠の0」が公開中です。ところで昭和20年3月、当時の海軍軍令部総長及川古志郎大将が航空特攻を天皇に上奏した際、昭和天皇から「航空部隊だけの総攻撃か」というご下問を受けています。

及川大将は天皇のご下問を「水上特攻はやらないのか」と勝手に解釈して豊田副武連合艦隊司令長官に伝達、豊田長官は「恐れ多きお言葉を拝し、恐懼に堪えず、臣副武以下全将兵殊死奮戦誓って聖慮を安んじ(攻略)」と回答しています。・・・鹿屋基地にあるゼロ戦(以下同じ)

水上部隊の早期使用に焦燥、悔いなき死に場所を得させようと熟慮していた(後日談)連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将は、戦艦大和を含む第二艦隊に「海上特攻して沖縄に突入するを目途とし、出撃準備を完了する」よう命令しています。・・・特攻死した宮部久蔵の孫役の三浦春馬

ところが伊藤整一第二艦隊司令長官は、飛行機の護衛のない裸艦隊での出撃作戦に猛烈に反対、草鹿参謀長の説得になかなか納得しなかったといいます。

直衛航空機を持たない艦隊が空からの攻撃に対していかに無力か、日本海軍が真珠湾奇襲とマレー沖海戦(イギリス戦艦2隻を沈没させています)で既に実証していたのでした。・・・特攻死した宮部久蔵の妻役の井上真央

しかし草鹿参謀長が「一億総特攻の先駆けとなって頂きたい。我々もすぐに続きます」という言葉を受け、伊藤中将は最後に判ったと回答、戦艦大和以下の第二艦隊は沖縄に向けた水上特攻に出撃したのです。

昭和20年4月7日、鹿児島県坊ノ岬(枕崎市の7km西)の西南西170kmの地点にいた第二艦隊に米軍の第一次攻撃機386機が来襲、12時41分から13時まで大和は魚雷と直撃弾を受けましたが、まだ致命傷とはならなかったようです。・・・特攻死した宮部久蔵の孫役、三浦春馬と吹石一恵

20分後の13時20分、第二波攻撃機(167機)が来襲、そのあとすぐに第三波と続き、14時7分に大和の右舷に魚雷が集中して命中、14時12~17分には左舷にも3発の魚雷が命中しています。

戦艦大和の傾斜が30度を越えたころ艦内のスピーカーで「総員最上甲板へ」の退艦命令が伝達され、大和は14時23分に大爆発とともに沈没、米軍の攻撃開始から僅か1時間40分後のことでした。

 日本側の戦死者は、大和だけで3056名、第二艦隊全体では4044名(大和ミュージアムの調査)、一方の米軍側損害は航空機10機、戦死たった12名、護衛航空機のない水上特攻が無意味であることが実証されのでした。

参考文献:戦艦大和 生還者達の証言から 栗原俊雄著



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