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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1704年の大和川付け替え工事の完成で、新田開発が可能となると、鴻池屋3代宗利(1667~1736年)は、地代権利金合わせて約2万両を支出、開発に着手しています。



1707年には、200町歩余りの 鴻池新田の開発が完成、田畑や水路・道路等の維持管理を行なうための事務所として新田会所も同時に建設されています。

表長屋門



JR鴻池新田駅前には、濠に囲まれた当時の住居や蔵5棟(重要文化財)が残り、現在は東大阪市が所有・管理して一般公開されています。

敷地内の神社(朝日社)



江戸期から戦前までの240年間、天候不順による不作などで経営者が変わる新田が相次ぐ中、鴻池新田だけは一貫して鴻池家が経営を続けたようです。

土間のかまど



これは質素倹約を謳った家訓を歴代当主が厳格に実践した成果だと思いますが、この会所には贅沢を戒める意味で、他の新田会所にあるような茶室を置かなかったようです。

質素な台所



また、1840年頃のことを書いた浪華百事談に、正月に争って立派な大門松を飾る商家が多い中、鴻池屋では小さな松の枝を表の柱に立てた質素なものだったと載っています。

本屋の座敷



明治4年の廃藩置県で大名への貸付金は帳消しとされ、当時76藩と取引のあった鴻池は莫大な損失を受けながらも明治の大阪で銀行業などをスタートさせています。



明治以降の鴻池家は、伝統的な商法を守っていたため、三井、三菱のように急速に発展することはできず、また住友家のような人材にも恵まれなかったようです。

米蔵(重要文化財)



同じ大阪在住の実業家藤田伝三郎は、明治維新以降、裸一貫からのし上がり、帝国大学卒の優等生を破格の待遇で集めて大成功を納め、1911年に鴻池と同時に男爵となっていますが、鴻池家の伝統では藤田のような商法は不可能だったと思います。



しかし、江戸時代の巨商、旧家が維新後相次いで消失するなか、男爵位を受け、終戦後の農地改革により莫大な田畑を失うまで、名家としての家柄を保った鴻池家は恵まれていたと考えるべきでしょう。

河内木綿



現在の鴻池組、鴻池運輸と鴻池新田のオーナーだった鴻池家とは、創業者が偶然同姓だっただけで直接関係は無いようです。


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