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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



JR山科駅の駅前を東西に延びる道が旧東海道、その道を西に1kmほど歩くとJRのガードがあります。・・・旧東海道にある石標

そのガードを潜って少し歩くと、右手の山に向かって伸びる参道があり、その突き当たりが大化の改新(645年)の立役者だった中大兄皇子すなわち天智天皇(626~672年)の御陵です。・・・JRのガード

天智天皇は、自身が遷都した大津京で亡くなり、すぐに山稜造営が着手されたようですが、子息の大友皇子と弟の大海皇子(631~686年)との後継者争い、すなわち壬申の乱(672年)の混乱で未完成のままだったようです。・・・宮内庁の看板

乱の後に、大海人皇子が天武天皇(当時42歳)として即位、皇后は天智天皇の皇女だった後の持統天皇(645~703年、当時28歳)です。・・・参道

それから14年後、686年に天武天皇が亡くなり、ふたりの間にできた草壁皇子(662~689年)も3年後に28歳で早世したために持統天皇が690年(当時46歳)に即位、7年後に草壁皇子の子供(孫に当たる軽皇子683~707年)を文武天皇として即位させています。・・・門

日本書紀には、文武天皇3年(699年)に天智天皇陵が山科に新たに造営とあるので造営されてから既に1316年が経過したことになります。・・・御陵前の広場

その天智天皇陵は、文武天皇が造営した藤原京(694年遷都)から見て真北、距離55kmの場所にありますが、北極星に住んだという宇宙を支配する天帝と天智天皇を同一視するためにその地が選ばれたという説があります。・・・御陵

どうやらそのストーリーを考えたのは、壬申の乱での大友皇子殺害の共犯者的立場だった持統上皇のようです。・・・少し離れた高台から見た御陵(正面の森)

文武天皇の藤原京大極殿の延長線上に天智天皇陵があることで、天智天皇と文武天皇(遷都当時12歳)が強く結び付けられ、文武天皇が権威ある天皇として、当時の貴族たちに改めて認識されるようになることを持統上皇(遷都当時50歳)は狙ったのではないでしょうか。・・・御陵の中に野鳥(ジョウビタキ)を見つけました。

大化の改新の主役(中大兄皇子=天智天皇)の娘(天武天皇の皇后=持統天皇)は、非常にしたたかな女性だったようです。

参考文献:天智と持統 遠山美都男著



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