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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



豊臣時代、中国9か国112万石を領地とした毛利氏は、1589年に広島城の築城を開始し、天守閣が完成する1591年頃に毛利輝元が移ってきています。毛利氏の広島城がほぼ完成するのは1599年、しかし関ヶ原で西軍の大将だった毛利氏は、戦後長州37万石へ減封され、毛利氏の広島城はわずか11年間だけでした。・・・これは鉄筋コンクリートで再建されたもの。原爆で倒壊するまでは毛利氏の建てた天守閣でした。

関ヶ原の翌年の1601年、福島正則(1561~1624年、当時41歳)が広島城に入り、城の整備拡張と城下町づくりに着手、現在の広島城のほとんどは、正則時代の19年間に完成したものです。・・・天守閣最上階から東方向の景色

広島城は、正則によって三重の堀を有する1km四方という大規模なものとなり、幕府が福島家を改易する口実の一つとなっています。さて、正則は、広島城を拡張したことで謀反を疑われ、大坂の陣の最中(1614~1615年)江戸で留守居を命じられ、さらに徳川政権が盤石となった1619年、信濃川中島へ減封されています。・・・城内には広島護国神社があります。

そのあと和歌山から広島42万石に移ってきたのが浅野長晟(ながあきら、1586~1632年、当時34歳)で、長晟の母は家康と親しかった北の政所(1547~1624年、秀吉の妻)の妹です。・・・

秀吉死後の浅野家は、家康に急接近、兄の浅野幸長(1576~1613年)は関ヶ原の戦功で和歌山37万石の大名となりますが、1613年に38歳で亡くなり、実弟の浅野長晟が備中足守2万4千石から和歌山城に移っています。無嗣断絶だった小早川秀秋と比べると幕府が浅野家を優遇していることが判ります。・・・

和歌山城主となって2年後、長晟(30歳)は家康の三女振姫(1580~1617年、当時36歳)と結婚、振姫と長晟には光晟(1617~1693年、家康の外孫)が生まれ、浅野家は徳川と縁戚となり、松平を名乗ることが許されています。・・・

ところで浅野長晟の弟、浅野長重(1588~1632年)は、父・長政の隠居領(常陸真壁5万石)を相続、同家は後に播州赤穂5万石に移り、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩は、この長重のひ孫に当たります。・・・

ところで吉良邸討ち入り後、母親の実家(豊岡藩京極家家老の石束氏)で生まれた大石内蔵助の遺児大石大三郎(1702~1770年)は、1713年に父親と同じ1500石で広島浅野家に召し抱えられ、母親・大石リクと共に広島に移ってそこで亡くなっています。・・・内堀の南西部から見た本丸

徳川家康の外孫となった広島浅野家は、福島正則のような派手な城普請を行わず、慎重に行動して明治維新まで約250年間続き、最後の藩主だった浅野長勲侯爵は、94歳の長寿を全う、昭和12年に亡くなっています。・・・内堀の南東部から見た本丸

参考文献:新編 物語藩史 第九巻 広島藩 後藤陽一著



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