昨日のブログで紹介した辰野金吾(1854~1919年)は、唐津藩最下級の武士、10石の禄高しかない姫松家の次男に生まれ、辰野家の養子になっている。
右の煉瓦造のビル

辰野は、唐津藩の上級武士であった曾根達蔵(1852年~1937年)に誘われて藩が設置した洋学校に入学、1年間の英語教育を受けているが、その英語教師は、のちに日銀総裁、首相を歴任した高橋是清(1854~1936年)だったという。
日銀大阪支店

1872年、曾根達蔵が上京、少し遅れて辰野も上京し、二人は猛勉強をして新しく設置された工部省工学寮(のち工部大学校)の造家(建築)科に入学している。
中央公会堂(実施設計)

そこをトップで卒業した辰野は、1879年イギリスに留学し、1883年に帰国、1884年には帝国大学工科大学(今の東京大学工学部)造家(建築)科教授に就任、明治の建築界を担う人材は、殆どが辰野の弟子であったという。
日生京都三条ビル

東大教授であった辰野は、1888年、日銀本店の設計を兼務することとなり、翌年までヨーロッパを視察、1890年に大学教授のまま日銀建築工事監督に就任している。
日銀大阪支店

1892年には、当時浪人していた高橋是清が日銀工事建築所事務主任に就任して、かつての恩師が部下として働くめぐり合わせがあったという。
中央公会堂

高橋是清事務主任は、在庫管理や発注管理、日銀との調整業務に辣腕を振るい、その実力は川田日銀総裁の知るところとなり、1893年日清戦争の開戦と同時に日銀西部支社長に引き抜かれている。
レストラン シェワダ

1896年に日銀本店は完成しているが、辰野「堅固」と呼ばれた城塞のようなデザインには、当時の山県有朋首相と川田日銀総裁の強い意思が反映されていたという。

辰野の代表作とされる東京駅の設計デザインにも、鉄道院の平井長官と後藤新平総裁の意向が大きく反映されていたので、辰野 金吾といえども、客先の意思を曲げて設計することはできなかったというのが真相らしい。
東京駅

辰野金吾が設計した建物は、大阪市内にもいくつか現存していて、明治の香りを放ち続けている。
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