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昨日、中山寺の記事の中で、羽林家(中山家)出身の明治天皇の生母「中山慶子」を紹介しました。そこで公家の家格について調べてみましたので、今日はナンキンハゼのカワラヒワの写真と一緒に紹介しましょう。

まず公家とは、御所の清涼殿にある殿上間に昇殿する資格を世襲した上級貴族のことで、平安中期には日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部「公卿」としての家柄が固定され、江戸時代末期には137家もあったそうです。

公卿になることが出来るのは上から摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家と呼ばれる家で、家格の高い順に御所の詰め所も異なり、天皇から受ける処遇も違ったといいます。

明治期になって爵位が制定(明治17年)されると、摂家5家は最高の公爵、清華家9家のうち三条実美の三条家が公爵、残る8家は侯爵を受爵。

清華家のうち西園寺家の西園寺公望、徳大寺家の徳大寺實則が尊皇攘夷派としての活躍と明治期の天皇側近としての勤務が認められ後に両家は公爵。次の大臣家4家は伯爵ですが、正親町三条家だけが正親町三条実愛の明治維新と明治新政府での活躍が評価され、後に侯爵に叙せられています。

大臣家の次の羽林家66家のうち、岩倉具視の岩倉家が公爵、中山家と四条家が侯爵、6家が伯爵、残る57家が子爵、明治維新で活躍した人物を出した家は、爵位でも優遇されていたことが判ります。

羽林家出身の公家の中で、岩倉具視の活躍は抜群と認められたのは当然としても、中山家は明治天皇の生母の実家ということと、父親の中山忠能が岩倉具視の協力者だったことでの優遇でしょう。・・・ナンキンハゼのカラス

同じ羽林家出身の公家で中山家と並んで侯爵となった四条家では四条隆謌を出しています。隆謌は八月十八日の政変で失脚した七卿の一人で、戊辰戦争で中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督などを務めた人物です。・・・モズ♂

羽林家の次となる名家28家では4家が伯爵、残りが子爵、半家26家では、澤宣嘉の澤家が伯爵、他はすべて子爵に叙せられています。澤宣嘉は八月十八日の政変で失脚した七卿の一人で、王政復古の後に九州鎮撫総督、長崎府知事などを務め、明治2年(1869年)に外国官知事から外務卿になった人物でした。・・・モズ♂



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