goo blog サービス終了のお知らせ 
野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



淀屋を繁栄させたのは二代目の淀屋个庵(こあん)で、大坂米市場の前身である米市をはじめ青物市・魚市場(雑魚場)を開設している。

淀屋常安の名前をつけた今の常安橋



余談であるが淀屋个庵の名前に使われている中国語の个(ge)は、日本語の「個」に相当するが、中国からの輸入品に手書きで「个」と書かれた文字を、当時カタカナの「ケ」と誤読したために、今でも3個のことを3ケと書く習慣が残ったという。

当時の淀屋財産目録には土蔵730箇所、船舶250艘、諸大名貸付金1億両、家屋敷542軒、資産1億2186万両と記されていたという。

淀屋橋に近い今の三井住友銀行本店よりも当時の淀屋の方が資産が多かった?



淀屋には借金の申し入れを行なうため、毎日のように諸藩の役人たちが入れ替わり立ち代り訪れ、その店先の繁栄振りはすごかったという。

淀屋の繁栄は、初代常安が淀屋を名乗ってから、90年間も続いたが、その淀屋に闕所の知らせが届いたのは1705年、当主は五代目の辰五郎だったと伝えられている。

幕府から大坂町奉行所を通じて伝えられた闕所の公式理由は、「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。

米市場のあった中之島西側のビル群



この頃になると淀屋の大名貸しの総額は20億両ともいわれており、一説によれば現在の価値で百兆円以上という膨大な額に昇っていたらしい。

当時の大名家を300とすれば、淀屋には1藩当たり300億円以上の貸付があったことになる。

幕府は、このまま放置すれば諸大名が窮迫し、幕藩体制も崩壊する可能性があるとして、倹約令違反という口実のもとに淀屋を取りつぶしたという説が有力である。

淀屋屋敷跡の対岸の中之島には日銀と大阪市役所



淀屋の闕所で大名家の借金百兆円は一気に帳消しとされ、大名家はやっと武家の面目を保つことができ、幕藩体制も揺ぎ無いものになったらしい。

この淀屋の闕所では、番頭・手代ら店の者達数十人が打ち首・獄門の刑に処されたというので幕府の危機感は相当なものであった。

闕所から10年後の1715年(正徳5年)になって、日光東照宮100年祭の恩赦があり、初代常安が徳川家康から拝領していた大坂郊外の八幡の山林約300石が淀屋に返還されている。

中之島には個人が寄付した中央公会堂もある



5代淀屋辰五郎はここに戻り、1717年に亡くなるまで静かな余生を送ったと言われている。

淀屋以降の豪商は「家訓」を残しているが、その中で必ず出てくるのが贅沢を戒めることと、「大名貸し」に気を付けることであった。

その後の豪商たちに淀屋のような取り潰しが無かった事を考えると、淀屋の取り潰しは無駄にはならなかったのかもしれない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )



« 淀屋常安 TOHOシネマ... »