白河法皇の崩御の後、鳥羽上皇(32歳)は、1134年に摂関家藤原忠実の娘、泰子(40歳、高陽院)を皇后に柵立して摂関家を味方につけ、璋子(たまこ34歳、待賢門院)に代わって藤原得子(18歳、美福門院)を寵愛しはじめています。

1139年、鳥羽上皇は、若い得子が産んだ生後三ヶ月の体仁(なりひと)親王を強引に立太子させ、2年後の1141年に崇徳天皇(23歳)に譲位を迫り、体仁(3歳、近衛天皇)が即位しています。 鳥羽の近衛天皇陵

崇徳天皇の譲位で権勢を失った璋子は、自ら創建した法金剛院において1142年に落飾し、その3年後の1145年、45歳で崩じ、法金剛院のすぐ北にある五位山に遺言通り土葬されています。

璋子をよく知っていた西行は、その翌年(西行29歳)都を離れて陸奥へ旅立っていますが、璋子の死という無常を見て、第二の出家をしようと思ったのではないかという説があります。

さて、五位山にある璋子の山陵は、327年後の1469年に盗掘にあっていますが、法金剛院の衆徒がさらに掘り下げると法華経を書いた薄い銅板が納められた銅製の箱を発見したといいます。

埋葬時の記録によれば、その銅箱の下に石櫃があり、その中に待賢門院璋子の棺が納められているので、璋子の棺は無事だったようです。

待賢門院璋子の没後10年、近衛天皇が17歳の若さで夭折し、璋子の生んだ雅仁親王(29歳)が後白河天皇として即位しています。

藤原北家の傍流、権大納言の娘だった璋子は、崇徳天皇と後白河天皇、二人の天皇の生母(国母)となり、一族(閑院流藤原氏)は、摂関家に次ぐ名門貴族(清華家)にのし上がるのです。

璋子の死から11年を経た1156年、璋子が生んだ兄弟、崇徳上皇(38歳)方と後白河天皇(30歳)方が激突する「保元の乱」をきっかけとし、日本の歴史は武士の時代へと方向を変えています。

一人の女性(璋子)が、天皇中心の貴族支配を終わらせ、武家の支配へと日本の歴史を変えたことになるのですが、璋子の存在の大きさに驚かされます。
参考文献:待賢門院璋子の生涯 角田文衛著