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 元木泰雄さんの書いた「殺生放逸朝家の守護 源満仲・頼光」に摂津、大和、河内源氏の盛衰について興味深い話がありましたので、多田神社の境内と一緒にご紹介しましょう。

多田神社鳥居と南門



 

多田神社に祀られる源満仲には、摂津源氏の祖となった長男の頼光、大和源氏の祖、二男の頼親、河内源氏の祖となった三男の頼信の3人の男子がいました。

多田神社の拝殿



 

このうち頼光の摂津源氏は、藤原道長を代表とする摂関家に歴代が忠実に仕え、次第に武士でありながら文人的な側面を持った一族となったようです。

築地塀



 

頼光の孫の頼綱の時代には、先祖伝来の多田荘を摂関家に寄進、藤原摂関家の組織の中に深く入り込んだため、摂関政治から院政に転換する時代の流れに取り残され勢力を失ってしまったようです。



 

次に大和源氏の祖、二男の頼親は、摂関家の推挙で大和守に3度も就任、大和の巨大勢力興福寺との抗争では藤原道長の強力なバックアップを受けていましたが、政治の安定とともに大和における頼親の立場は弱体化していったようです。

多田神社のモミジ



 

しかし、頼親の孫の頼俊は、1067年に陸奥守に就任、朝廷から陸奥北部追討の指示を受けて出陣しますが、在地の官人(藤原基通)の協力が得られず失敗、以降大和源氏は衰退しています。


一部紅葉が始まっていました
 



河内源氏の祖、頼信は、兄たちのような摂津、大和という近畿の豊かな国でなく、常陸、上野、甲斐など遠い関東の受領に就任、「平忠常の乱」では戦わずして乱を平定したことで名前を知られています。

摂社の六所神社



 

また頼信の嫡男頼義は、関東に大勢力を持つ桓武平氏の嫡流、平直方の女婿となり、直方の鎌倉屋敷、所領、郎党など関東平氏のパワーを継承しています。

摂社の弁財天



 

さらに陸奥国で起こった前九年の役では、頼義が起用されて勝利を収め、その後頼義の嫡男、義家が大和源氏の頼俊が失敗した藤原基通の追捕や後三年の役を平定、この過程で頼信以来の河内源氏は東国武士団の棟梁に成長したのです。

東門



 

東国における名声を背景に、軍事貴族連合を形成した河内源氏は、河内を拠点とした畿内の郎党を組織化し、京都を舞台とする王権の守護者をも兼ねるようになっています。

多田神社南の猪名川




参考文献:殺生放逸朝家の守護 源満仲・頼光 元木泰雄著



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