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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



シンパポール攻略の前段となるマレー作戦で謀略と政治工作を担当したのが「藤原(F)機関」です。その機関長だった藤原岩市中佐(当時33歳)のことをシンガポールのジュロン鳥園のテリムクと一緒に紹介しましょう。・・・アカバネテリムク

藤原中佐は、マレー作戦でイギリス人と共に戦って日本軍に降伏したインド人兵士をイギリス人兵たちから切り離し、彼等の民族心に訴えて最終的に5万人もの規模のインド国民軍としています。・・・アカバネテリムク

元インド国民会議派議長だったチャンドラ・ボースは、1943年シンガポールで藤原中佐の設立したインド国民軍の指揮権を受けて自由インド仮政府を樹立、宗主国イギリスとアメリカへ宣戦布告しています。・・・オナガカラスモドキ

チャンドラ・ボースが指揮するインド国民軍は、インパール作戦で日本軍に協力しますが敗退、終戦後イギリスはインド国民軍の将兵を、イギリス国王に対する反逆罪に問う裁判を開催しています。・・・セイキテリムク

しかし、その裁判を機にインド民衆に独立の気運が一気に高まり、ゼネストや暴動が起きる中、「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」となり、1947年8月のインド独立を勝ち取る大きなきっかけとなったのです。・・・キンムネオナガテリムク

イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは「インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動よりも、チャンドラ・ボースが率いるインド国民軍に依ってもたらされた」という説をとなえています。・・・ツキノワテリムク

インド国民軍創設者とも言える藤原岩市中佐は、シンガポールで華僑の虐殺が進行中という情報を受けて急遽25軍司令部を訪ね、杉田参謀(37歳)に軍の命令かと質すと、杉田参謀は暗然たる面持ちで、一部の過激な参謀の意見に左右されて粛清の断が強行されているのだと嘆じたそうです。・・・ムラサキテリムク

藤原岩市中佐はこの「一部の過激な参謀」が誰かということを公表していませんが、様々な状況から辻政信参謀(当時39歳)と推測して間違いなかろうと思います。・・・キンムネテリムク

藤原中佐は「この虐殺の結果が日本軍の名誉のためにも、又住民の民心把握、軍政の円滑な施行の上にも良い結果をもとらさないことを強調。インド人工作にも大きな影響があると指摘して善処を願った」といいます。日本軍参謀の中にも良識派はいたのです。・・・キンムネテリムク

参考文献:マレー・シンガポール作戦 森田康平著



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