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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



日光東照宮見学のあと、華厳の滝に向かいました。華厳の滝の由来を調べてみると、仏が悟りを開いてから説いた経典の最初が華厳経、次いで阿含教、方等教、般若経、法華経の順で、華厳経には最初のとか第一のという意味があることから日光第一の滝が華厳の滝と命名されたそうです。・・・華厳の滝前の駐車場から霞む男体山

華厳の滝といえば、1903年(明治36年)522日、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して自殺した旧制一高生、藤村操(18861903・満16歳)がすぐに思い浮かびますが、藤村操は開成中学の修学旅行(190010月)で華厳の滝を最初に見たと同級生が証言しています。

藤村操の祖父は盛岡藩士、操の父の藤村胖(ゆたか)は、エリート官僚(元大蔵省主計官)を退任後、北海道屯田銀行頭取として成功しますが1899年に急死(50歳くらいか)しています。・・・滝の背後

父親の死後、藤村操は北海道から東京へ移り、開成中学から一年飛び級で第一高等学校に入学しているのでエリート官僚だった父親同様の秀才だったようです。・・・華厳の滝の横の崖にも小さな滝が

叔父の那珂通世(18511908・胖の実弟)は文学博士(歴史学者)、操の弟の藤村朗は、後に三菱地所社長、妹の夫の安倍能成は、学習院院長や文部大臣という、まさに絵にかいたようなエリート一家の一員でした。

藤村操の遺書「巌頭之感」は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出、藤村の死後4年の間に同所で自殺を図った者は185名、華厳滝は今も自殺の名所として知られています。

高校生ばなれした「巌頭之感」の名文は、黒岩涙香(18621920)が「熱誠に富たる名文章」と称え、中学生だった和辻哲郎(18891960)は「私の心に焼きついた」など、当時の人々の情感を揺さぶったようです。

藤村操の「巌頭之感」は、滝の上にあった木の幹を削って書いていたことが大きな話題となっていますが、一部の人には反感があり、二葉亭四迷(18641909)は「俺が死ぬなら俺は書かない。あれを書くうちはまだ未練があるのだ」と批評しています。

遺書を木の幹を削って書くというのは、当時の若者に人気があった高山樗牛(1871~1902)の小説「滝口入道」の中に(平維盛が大木の幹を削って遺書を残して入水したシーンとして)登場、藤村操はそれを真似たのでしょう。

つづく

参考文献:藤村操の手紙 土門 公記著・検証藤村操、華厳の滝投身自殺事件 平岩 昭三著



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