今年、読売テレビの開局記念ドラマとして放映される「お家さん」は、大正期に日本最大の貿易取扱い額を誇っていた総合商社「鈴木商店」の女主人「鈴木よね」の物語です。・・・中之島公園の写真と一緒に金子直吉を紹介しましょう。
鈴木商店の番頭、金子直吉(1866~1944年)は、土佐の田舎で生まれ、江戸末期の儒教教育を受け勤勉実直、清廉潔白な人物となっています。・・・上の写真の次の日は、PM2.5による大気汚染が深刻でした。
金子直吉は、1886年に神戸の砂糖卸商鈴木商店に入りますが、1894年に鈴木商店の当主が亡くなると、未亡人から鈴木商店の経営を託され、鈴木商店が合名会社となった1902年頃には大番頭(CEO)となっています。・・・堂島川の上流方向の様子。OBPにあるビル群が霞みの中にやっと見えています。
1914年に第一次世界大戦が始まると、鈴木直吉は積極的に事業を拡大、当時ロンドン支店長だった高畑誠一(後の日商社長)に「BUY ANY STEEL, ANY QUANTITY, AT ANY PRICE.」と指示したことで有名です。・・・天神橋方向の様子
金子直吉の鈴木商店は、積極果敢な企業戦略・多角化戦略によって1917年(大正6年)の貿易年商は15億4千万円、三井物産の年商(10億9千5百万円)を圧倒しています。・・・バラ園の西側の様子
ロンドンの高畑誠一は、巨大商社となった鈴木商店を合名会社から株式会社へ組織変更するよう意見具申していますが、儒教精神で固まった金子直吉はそれを受け入れませんでした。・・・天神橋方向
第一次大戦中の高畑の活躍を知った川崎造船所の松方幸次郎は、高畑を女婿としようとしますが、金子直吉が先手を打って鈴木よねの孫娘と結婚させています。・・・バラ園西側のズームアップ
大戦末期の1918年(大正7年)7月に米騒動が発生すると、朝日新聞は鈴木商店が米価を上げていると攻撃(米の買い占め記事は後に誤報と判明)、それがもとで鈴木商店神戸本店は大衆に焼き打ちされています。(実は、当時の三井物産が密かに高値で米の買い占めをしていたことが判っています)・・・土佐堀通り
当時の鈴木商店は、困窮者に対して三井、三菱にひけをとらない寄付をしていたのですが、陰徳をモットーとしていた金子の意向でそれを公表しなかったため、鈴木は寄付をしていないという誤解を大衆から受けていたのでした。・・・堺筋の様子
参考文献:日経新書 総合商社の源流 鈴木商店 桂 芳男著