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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪市福島区野田にある野田の藤は、春日大社の神官である藤氏が野田の地に春日神社を開くにあたり、奈良から藤の苗を移したのが起源というのでかなり古くからこの地で栽培されていたようである。



野田の藤に関する古い記録としては、太政大臣西園寺公経(1171~1244年)が藤の名所と知って訪れ、春日神社に宝剣を奉納したという文書があるので、800年前からすでに藤の名所として知られていたことになる。

さらに1364年、室町幕府の2代将軍足利義詮が住吉詣での途中、春日神社に藤を見物するために立ち寄った確かな記録が残されている。

春日神社手前にある藤棚



春日神社から南東に300mの天神社(下の天神)の境内には、天文元年(1532年)と年号の入った石碑があり、その石碑の裏に「右ハ婦(ふ)ち(じ)名所春日社」とあるので、この頃には名所として知られていたことが判る。



この石碑は、今から476年も前の室町時代のものなので、大阪市内に残る石碑のなかでもかなり古いものであるが、年号については古すぎると疑う人もいるようである。



1533年、近江守護の六角定頼が、石山本願寺を攻撃した際に春日神社に火をかけたために、宝蔵の古い記録文書を含む社殿は焼失してしまった。

翌年、火災に遭った藤の木から新しい芽が出始め、10年後の1543年には春日神社も再建されていたようで、三好長慶が父の仇討祈願に詣でたと記録が残されている。



1570年、三好三人衆と松永久秀は、春日神社に近い野田城に篭城し、石山本願寺と結んで織田信長と対抗しているが、篭城中の武将が野田藤にちなむ和歌を詠んで春日神社に奉納したという。

1594年春には、天下を統一、大阪城を築いて絶頂期を迎えていた豊臣秀吉が、お膝元の野田藤を訪ね、このときに春日神社の社殿も整備されたようである。



江戸期に入った1675年に刊行された書物には、慶長期(1600年前後)「吉野の桜に野田の藤、高尾の紅葉」と並び称せられていたという。

従って六角定頼の放火から70年を経た野田春日神社は、吉野の桜に匹敵する藤の名所となっていたようである。



その後一旦廃れていたようであるが、1701年の摂陽群談には、野田藤の見物客が群れをなしている賑わいが書かれている。


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