広州占領から1か月後、広島第5師団は北支方面軍に移動が決まり、12月下旬に仏山を離れ大連に移動しているが、久留米18師団と大阪104師団は引き続き広州に駐屯している。
広州が日本軍の空襲を受けたときの写真を見る中国人

広州占領の1年後に18師団と104師団は、広州の北150kmの英徳攻略作戦に出動して、英徳を占領、広州の北部の守りを固めている。
広州を占領しても蒋介石への援助物資の補給は全く減らなかったので、陸軍参謀本部第一部長に就任した富永少将は、シナ事変最後の作戦として広西省の首都である南寧を攻略する作戦を企画し、参謀本部の命令としている。
日本の爆撃写真

作戦部長が交代するたびに新部長が「最後の作戦」というキャッチフレーズを使って、膨大な予算と多数の兵士の命が犠牲になる新しい作戦が企画実施される陸軍伝統のパターンがまたも繰り返されるのである。
有権者と政治家は、現在の官僚も陸軍と同じDNAを受け継いでいることを常に意識しながら彼等の仕事をチェックしなければ、同じ過ちを繰り返すことになる。
少し後の話になるが、昭和20年3月に広東省の北東にある江西省から南下して広州に入った軍医、町田正司氏が書いた中国縦貫戦記に日本軍に占領されて6年半後の広州の状況が出てくる。

昭和20年3月頃、英徳から50km北の韶関には大阪104師団が駐留し、韶関は非常に賑わっていたとある。
昭和20年4月14日、町田氏が所属する第27師団は韶関から恵州に入り、東莞、恵陽(淡水)にそれぞれ1個大隊を駐留させているのでそれまでこの地域には日本軍の駐留は無かったのであろう。
深圳という名前が出てこないが、当時はほんの寒村だったようである。
町田氏は師団と別れ、清遠市付近から鉄道で広州の北東10kmにある竜眼洞(今の華南植物園に近く)に移動し、米軍の広州上陸に備えた洞窟陣地を掘ったという。
広州市内から車で15分くらいの所にある華南植物園には一度行ったことがあるが、確かに広州を見下ろす高台のような地形であった。

昭和20年4月下旬、町田氏は広州市内にあった防疫給水部に連絡に行き、沙面にある豪華な広東ホテルに宿泊している。
左側が今の広東勝利賓館ホテル

英国の租界であった沙面の広東ホテルは、英国人好みのコロニアル風豪華ホテルであったが、日本軍専用のホテルになっていたらしい。
当時、日本軍に占領されていた広州は米軍の爆撃が頻繁にあり、広東ホテルに泊まった時も空襲警報で地下にある防空壕に避難したと言う。
このホテルは広東勝利賓館という4つ星ホテルとして今も営業を続けているので、地下には防空壕が残っているのであろう。
占領されて6年以上もたっている広州の市民の日本軍を見る目は冷たく、日本軍が使う紙幣(軍票)の値打ちが下がっていたので、何も買い物ができなかったらしい。
| Trackback ( )
|