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日清戦争が終わった6年後の北清事変(義和団事件・1900年)で北京籠城時の日本人を各国がどう評価したかを天津の朝の風景と一緒に紹介しましょう。

柴五郎中佐は「我々日本人は、1か月余りもイギリス公使館を守るため粛親王府の持ち場に張り付き、敵と応戦を続け毎日34時間の睡眠しかとれませんでした」と厳しい状況を報告書に書いています。

一方、多数いた西欧兵や義勇兵は、交代時間が来れば安全な公使館に戻り、そこに籠城している女性たちと同じ扱いを受けていました。

ロンドンタイムズの特派員モリソン(38歳)の日記には「公使館にはいつも100150人ものたくましいヨーロッパ系の男達が(敵と戦うことなく)たむろしている」と憤懣を書いています。

北京居留の西欧人(500人)の中には、大勢の男達(80%とすれば400人くらい)がいましたが、義勇兵を志願した44人を除いた残りのメンバーは戦わなかったのです。

その状況は、籠城した日本人の死亡率20%に対し、イギリス人の死亡率3.6%というデーターが物語っています。

籠城中に負傷者の治療に当たっていたイギリス人女性看護士ランサムは「その言動を予言できる国民は日本人だけでした。彼らはいつも朗らかで、溌剌としていて、負傷してもくじけません」と書いています。

一方、モリソン特派員は「負傷したオーストリア兵の大男は、子供のように大声で泣きわめき、イタリア兵は、取るに足らない傷なのに子供のように泣いて大暴れしたために、その治療に6人の男手が必要となった」と西欧人の弱さを苦々しく書いています。

戦死者を除くと日本兵の負傷率は100%、つまり日本兵全員が何らかの戦傷を受けていたのです。5回も負傷しながらも治療が終わると、不自由な体のまま前線に復帰した日本人兵士がいたことを、籠城する大勢の西欧人が記録に残しています。義勇兵として志願せず前線に一度も出ることがなかった、逞しい西欧人男性は恥ずかしくなかったのでしょうか。

参考文献:「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子著



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