日露戦争が始まる3年半前にあった北清事変(義和団事件・1900年)時の柴五郎中佐(1860~1945年)の活躍を、北京に近い天津の解放北路の風景と一緒に紹介しましょう。

籠城していたアメリカ人女性スミスは「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が現在の地位を占めるようになったのは、彼の知力と実行力によるものです(中略)今ではすべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるようになっています」と書き残しています。

スミス女史はまた、柴五郎と日本義勇兵のことを「彼(柴中佐)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードのうしろに勇敢に構えています。その様子は(同じ粛親王府を守備している)イタリア兵とは大違いです。彼らはイタリア本国でも最低の兵隊たちなのだと思います」と記述

義勇兵として柴のもとで戦ったイギリス人ウイール(23歳)も「粛親王府を守るのは少なくても500名の兵を必要としていた。しかし31人の日本兵と彼らを補佐する日本人を主体とする数十人の義勇兵は素晴らしい指揮官に恵まれていた。柴中佐である」とし

「ぼくは各国の受け持ち部署を見て回ったが、粛親王府で初めて組織化された集団を見た。今、ぼくは自分がこの小男(柴中佐)に傾倒していることを感じる。ぼくは彼の奴隷になってもいいと思う」とまで日記に書いています。

籠城したイギリス人ジャイルズ(21歳)も「粛親王府で指揮に当たっているのは日本の柴中佐だ。日本兵が優秀であることは確かだし、ここ(籠城)にいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきだ。次が我がイギリス水兵だろう」

「日本兵が守備に当たってくれていることはラッキーだ。もし、イタリア兵やオーストリア兵だったらとっくの昔に敵の手に落ち、ぼくたちは全滅していた」と日記に書いています。

ロンドンタイムズの特派員モリソン(38歳)も「粛親王府はひどい破壊だ。イタリア兵は、やる気がなくしぶしぶ戦っているが、日本兵は柴中佐の下で張り切っている」と日記に残しています。

籠城していた多くのイギリス人やアメリカ人がイタリア兵の意気地なさを軽蔑的に書き残していますが、柴五郎自身が書き残した報告書や記録にはそうして部分は皆無で、それどころか「イタリア兵もよくやってくれた」と書いてあるのです。日本人なら、こうありたいものですね。

参考文献:「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子著