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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



江戸時代初期の淀川の本流、大川は大坂市街地に流れ込み、中之島と堂島にぶつかって3本に分かれて下流に向かっていた。

中之島の夕暮れ



そのなかで最大の川幅を持つ本流は、堂島川だったが、当時堂島川から北側は市街地の造成中というさびしい場所であったため、堂島川には橋が無く、裏川と呼ばれていたらしい。

堂島川の夕暮れ



昭和40年の河川法によれば、堂島川から安治川を通じて大阪湾に至る流れが今も旧淀川の本流となっているという。

堂島川



一方、中之島の南を流れる土佐堀川は、表川と呼ばれ、1657年の大坂図には栴檀ノ木橋、淀屋橋、肥後橋、筑前橋、越中橋が載っているので、今から350年以上前から土佐堀川には5本の橋が架かっていたことになる。

土佐堀川



先週、栴檀ノ木橋から土佐堀川を見ると、意外と川の流れが澄んでいて、階段状となっている護岸の3段目くらいまで判り、さらに体長30センチくらいあるコイのような魚が2匹泳いでいるのが見えるではないか。



大阪に住んで永いが、淀屋橋のすぐ近くの土佐堀川を泳ぐ魚を初めて目にすることができた感動の瞬間であった。

土佐堀川と淀屋橋



このまま土佐堀川の水がキレイになり、底を泳ぐサカナを見ることができるようになれば嬉しいが、そんなに遠いことでは無いかのかもしれない。

土佐堀川



大和川の氾濫が続いて難儀していると河内の住民が奉行所に訴えために河村瑞賢は、淀川本流の堂島川を1682年浚渫、さらに1684年下流の安治川を開削して、大和川の治水は成ったと幕府に報告している。

堂島川



しかし、大和川の洪水は1704年の付け替えまで続いたので、この浚渫はあまり効果が無かったらしい。

新淀川(赤線)と大川の分岐点



堂島新地の町割りが出来上がったのがその4年後の1688年(元禄元年)、堂島川に大江橋、渡辺橋、田蓑橋、玉江橋、船津橋が完成したのも1688年というので、元禄時代までのキタは土地造成が終わったばかりの新開地だったらしい。

渡辺橋の夕暮れ



その後、曽根崎川(蜆川)が改修されて曽根崎新地ができたのが1708年、明治末期まで流れていたがキタの大火の瓦礫で埋め立てられている。


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