遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   Oデイケアの日だった。9人の高齢者とヘルパーさんが待っていた。新しい方がふたりいたので、紹介ゲーム、どんぐりころころの手遊び それから今日の朝ごはんゲーム、ボールわたしゲーム、フレーズをど忘れして先生に聞いたいわしの開き それからおはなしをしてまたゲームをして ハイタッチして抱き合ってお別れした。

    ボールわたしゲームではみなさんの創意工夫で新バージョンができた。ボールがだんだん重くなる、そして軽くなる。どっこらしょといかにも重そうに受け取ったり、ふわりと手渡したりみんななかなかの役者である。手白のさるはいままでで最高のできだったと思う。固唾を呑んで聞き入ってくださってうれしかった。「先生 今日はほんとうに楽しかったよ、またきてね」一生懸命おはなしを聞いてくれた耳のわるいおばあさんがわたしの目をじっと見て言う。わたしもみなさんがだいすきだ。デイケアにきて遊んだり語り合ったりすると いのちがあたたまる。

   ビウエラのレッスン 一弦、二弦、三絃はひとさしゆびとなかゆびで爪弾く。四弦は拇なのだが、弦に指を置き力を抜いて三絃に落とす。それができない。どうしても力が入ってしまうのだ。こんな簡単なことがと情けなくて笑い出してしまう。力を入れるのはたやすいことなのに、力を抜くというもっと簡単そうなことがなぜできない。

   演劇のエクササイズでもそうだった。クラシックの発声でもそうだった。余分な力がはいると 芝居はくさくなるし 美しい声も出ないのだ。語りもそう、語り手にリキがはいると聞き手は疲れる。肩の力を抜かないと開かない。また うまくやろう 見せてやろう 負けたくない 褒められたいなどと余計な色気を出せばそれはそのまま聞き手に伝わる。無心になってはじめていい語りができる。そのときは目の前に聞き手がいて 語る自分もいるのだが すべて消えてしまうように思う。透徹した意識がなにかと一体になってそこにある。そういう語りは滅多にできない。6年間語ってきて 10の指に満たないと思う。

   ひと月に6回 それぞれ三話(ちょっと無理かも)語るとして年間210話 あと10年語れるとして最大2100話 一回語るごとに残りは減ってゆく。まして聞き手はおなじではなく 一期一会 たった一度しか聞いていただく機会のない方もいる。一刻一刻 刻まれる時は戻りはしない、ひとは誰も死に向かって歩いている。誰にもひとしく終わりは来る。それを思えばことばにいのちをのせないで語ることなどできようか。

   それゆえ 一回の語り ひとつのものがたりに無心になりたい。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )