遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

驚愕の日本史①をまとめていて 過去に書いたことがふたつつながり 愕然としました。

そのひとつは幕末 京都明治天皇が弑逆されたあと 東京明治天皇の他に擁立された天皇があったことです。輪王寺の宮 ⇒ 東武天皇です。このとき東北独立北日本政府独立の動きがあったのです。

結局 会津降伏の東京明治天皇側と和解が成立し 北白川能久親王 となられるのですが 日本政府は突然戦死を発表 息子の 成久王 は事故死 そのお子の 永久王 も事故死 このおふたりの死もとても奇妙です。そして北白川能久親王と永久王が靖国神社の最高のご祭神なのです。

靖国神社の謎については過去記事をごらんください。

⇒ こちら 

悲劇の北白川家

北白川宮能久(よしひさ)親王は幕末時の皇族である。幕末時に孝明天皇が急逝(殺されたとの説がある)、睦仁親王が擁立された。睦仁親王も間もなく急逝せしめられたとの説があり、長州が「成り代わりの睦仁親王」を明治天皇として即位させ、薩長同盟はこの明治天皇の朝儀を錦の御旗に掲げつつ幕末内戦に突入した。これについては大室寅之祐→明治天皇考で考察している。.....彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立て対抗したことになるこれを輪王寺の宮から見れば、1868(慶応4).6.15日、 輪王寺宮公現法親王は、諱(い みな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇 帝」に即位。この日を以て、「大政」元年と改元。東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王」と輪王寺の宮が講和を結び、

・睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。

1870(明治3)年、輪王寺の宮は、還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、能久親王として軍籍に就く。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ぶ。1872(明治5)年、留学中、北白川宮を相続する。
 1894(明治28).1月、還俗していた北白川能久親王が近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、台湾植民地化に赴いた。同10.28日、日本政府が突然「マラリヤにより台南に於て薨去した(享年49歳)」と発表した。表向きは「風土病で死んだ」とされたが、現地情報では、生番義民軍のゲリラによって負傷し、その後出血多量で戦死した、とされている。これは日本皇族の最初の海外戦死だった。

成久王は明治20(1887)年に誕生。わずか8歳で父宮の死去によって宮家を相続。成久王は陸軍閥の北白川宮家の伝統にのっとり、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵少佐となり、大正 6年には大勲位に叙せられた。しかし同12年、視察のために訪れていたパリで自動車事故により死亡。37歳の宮さまざかりであった。

 北白川宮第四代永久王は成久王の王子として明治43(1910)年に誕生、大正12年父宮の死去により宮家を相続。父宮 と同様に陸軍士官学校、陸軍大学校と進み、これまた父宮と同じ砲兵少佐の任に就いた。この間、ホ○ナベ元帥と交友を深める。昭和10年、尾張徳川の裔、男爵徳川義恕(よしくみ)の娘祥子(さちこ)と結婚。幸福な人生を歩むかに思われた。昭和なって蒙古へ参謀として派遣される。昭和15年、現地の日本軍が歓迎の閲兵(えっぺい)分列していた時、デモ飛行機の曲乗り中に故障して操縦士の操作が誤り臨席していた宮様にぶつかり死亡せしめられた(享年31歳)。「蒙彊方面で演習中、不時着した飛行機にひっかけられて死亡」とされている。父永久王の跡を継いだ第五代道久王は昭和22年、臣籍降下。北白川道久を名乗り、ここに宮家としての歴史を閉じる。道久王はその後東芝に勤めた。引用(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._goshintai.htm)

 

 以上

さて 二つ目は 名前は似ていますが今度は 白川伯王家のお話 というより伯家神道のお話 白川伯王家は天皇家の祭祀を司どっていた伯家神道(白川流神道)の家元でした。そして伯家神道には重要な予言がありました。「伯家に伝えられた祝 はふり の神事を授けられない天皇の御世が百年続くと、日本の国体が滅亡してしまう」というものです。わたしの疑問は 東京明治天皇は 祝の神事を受けられたのだろうか!? ということでした。

祝 はふり とは 罪やけがれを放(はふり)清める意。 天皇とは 古来 シャーマンであり 神とつながることのできる神職でありました。政治をまつりごと といいますが もともとは神をまつる ということからきています。祭政一致とは 神の御心 意 を受けて世を治めることです。日嗣の皇子が天皇になる大嘗祭の一環として執り行われた祝の神事とは 天皇に罪やケガレを祓う力をあたえるものであったのでしょうか それとも天皇が依り代になる儀式だったのでしょうか。 

②伯家神道の予言

白川伯王家とは? 

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の孫の延信王から始まり、古代からの神祇伯に伝えられた伝統を受け継いだ家柄である。 天皇家の祭祀を司どっていた伯家神道(白川流神道)の家元。 なお、花山天皇の子孫の源氏である花山源氏(かざんげんじ)に該当するのは、この白川伯王家のみであるため、両者は事実上同一のものである。 花山源氏と白川家 白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家。花山天皇の孫延信王(のぶざねおう)が源氏となり神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を独占。神祇伯に就任してからは王氏に復することとなっていたために、別名「王家」も称される。 しかし、室町時代になって吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して神職の世界を支配するようになると白川家の権威は衰退。江戸時代に伯家神道を称するも、寺社法度が制定されて以降吉田家の優位は動かなかった。 家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。 江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。明治時代には王氏を称することを止められ、子爵。 白川家の成立 白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、伯就任とともに「王」を名乗れたことである。「王」の呼称の権利は天皇との血縁関係で決まり、本来役職に付随する性質のものではない(詳しくは皇族参照)。臣下でありながら、王姓の世襲を行えるのは白川家にのみ見られる現象であり、特異なことである。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。 万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。当時の呼称は「源」または「王」であり、「白川家」や「伯家」「伯王家」と呼ばれるのはもっと時代が下ってからである。神祇とは神を祭ることで、その責任者は天皇であるほどの、朝廷にとって最も重要な行為であった。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。
神祇伯家学則にある神道の大要 「神道というものは、古今を通じて変わらない根本原則であり、いずれの国においても通用する大道であり、神道と武道(相撲を含む)は一つであり、身を修め、家を整え、国を治める といったことの要領も、古事記・日本書紀・古語拾遺等の皇典を研鑚するうちにわかる。」とある
 
伯家神道は今でもあるの?
白川家は明治に入ってから途絶えた。代々口頭で教えを伝えてきたため、伯家神道も一家とともに失われたことになる。だが その教えは平田篤胤など、伯家神道の影響を受けた学者や神道の教団があるので、彼らを通じて現代にまで伝わっていると言える。
 
 どうして伯家神道が話題になるの?
「2012年に日本が滅びる」という予言があるから。「伯家に伝えられた祝の神事を授けられない天皇の御世が百年続くと、日本の国体が滅亡してしまう」というもの。「祝の神事」とは伯家が代々の天皇に伝授する行法のこと。最後にこの「祝の神事」を受けたのが明治天皇で、大正天皇が即位した1912年から100年後が2012年にあたる。
 
引用終了
 
 
ここで ふと  1912年から ちょうど 100年目が 2011年だった .....  伯家の予言とは 3.11 のことではなかったか と 思ったのです。3.11 では あやくう 東京を含めた東日本がほろびるところでした。以前に書きましたが 土木協会の調べでは 神社の直前で津波が食い止められていることが多かった。そして 神一厘の仕組み ①フクシマで工事が予定より延びて 水がたまっていたこと ② 東海村原発で前日に防波壁が完成していたことで からくも東日本は救われたわけです。......   
 
 
 
 
引用再開
金帝・銀帝・銅帝・泥帝・哀帝

道家の山蔭基央氏が著書で次のように語っている。 ↓

明治の憲法が制定された時、京都の公家達は次のやうに言つた。 「此の憲法のある限り、今は金帝さまだが(今上皇帝をもぢり金帝と云ふ)、次は銀帝、次は 銅帝、次は泥帝、次は哀帝に成る」と。まことに、其の通りに成りつつある。 明治憲法は「祖宗の遺訓を守る」と言ひ乍ら、天皇に軍服を着せて「覇王(大元帥)」とな し、てんと恥ぢる事なく、憲法第一章・三條に於て、「天皇は聖にして侵すべからず」と明 記した。 其の後は、天皇は國家機關の求める事に從つて國政・國事を行ふ「立憲君主」に成つていく。 此のことを指して京都の公卿達は異議を申し立てたのである。 まづ以て、天皇は敕に基づいて生まれ乍らに祭祀王であられる。國民の尊崇は祕の中にあ る。其れを輔弼する公卿達は、日常を事の中で生活してきた。禁中(皇室)は事が基本で ある。其れが日本國民の宗家としての生き方である。 『禁祕抄』(順徳天皇著・承久年間成る)は宮中の故實・慣例を記したもので、其の中に「禁 中は年中、事を以て大事とする」との意が記されてゐる。皇室は幾度か危機に瀕したが、必 ず天皇は事を守り祭祀王の道を守られたのである。 然るに「明治憲法では、御政務とて、事中心の生活を侵害してゐる」と言ふのが、明治の公 家達の言葉である。此のことは「現行憲法」でも變はる事はない。ましてや「皇室外交」と て、天皇を政治外交の場に引き出すことは天皇の御本質を損なふものである。
この予言だと、泥帝=明仁天皇であり、哀帝=徳仁親王ということになる。哀帝は「ないてい」であり、廃帝(皇位を剥奪・天皇では無かったことにされる)というふうに解釈できる。つまり、今の皇太子・徳仁親王は廃帝になるという不吉な予言なのだ。(※紀子さまのお血筋)
引用終了
 
 
大日本国憲法第一章・三條に於て、「天皇は聖にして侵すべからず」と明 記されているのは 驚愕の日本史①で 書いたように 伊藤博文が 京都明治天皇と入れ替わらせた力士隊の大室寅之祐の実態を覆い隠すためにしたことのようです。ところが これが  天皇家という高貴なお血筋が日本という国を連綿と守ってきた「祭祀や天皇のあり方」を根底からくつがえすことになったのではないでしょうか。天皇とは祭祀者 神を祀るお立場でした。あらひとがみということばにはおごりがあります。それは 実際 神をも恐れぬ行為でもあったのではないでしょうか。
 

 それでは この項 最後に....

日本が滅びるとは、実際何が起こるの?

伯家神道に関連した予言から読み解くと、天変地異が起こり、生き残る人間はわずか3パーセントとか。あわや最後か……と思われたときに、「ミロクの世」(天国的理想社会)が訪れるそうだ。

生き残る方法は?
 
「祝の神事」はすでに伝わっていないが、国民一人一人がその精神を体現すれば、犠牲が減らせるかもしれない。つまり、異なる宗教、異なる民族、異なる主義などを否定したり憎んだりすることなく、すべて「神を祭る」という共通の目的のもとにあるものと考え、鳥や獣、魚や虫、砂や石までおよそこの世にある森羅万象のすべてを受け入れるという、伯家神道の教えに従うことだ。
 
 
わたしは今上陛下は日本の平安について 心を砕かれておいでになるようにお見受けいたします。憲法についてもお立場のゆるすかぎり 美智子さま 皇太子殿下ともども擁護のお気持ちを述べられています。安倍首相ほか自称愛国者のみなさまは 口先だけの 愛国ではない ほんものの愛国者として 天皇の御心を 配されてください。日本の若者を他国のつみなきひとを殺す獣の道に落とすようなことはしないでください。アメリカの傭兵にしないでください。
 
 
 
うつくしい日本の国土を穢す 原発は 廃炉にしてください。
 

http://hakkeshinto-mobile.seesaa.net/ から 引用させていただきました。

 



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