遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

① 長野

土日は長野におりました。

158円/l 159円/l の ガソリンを50l 入れてゆきました。

長野はガソリンが高い 169円のGSもあります。

物価はやすい 南高梅 和歌山産が 488円/k でした。こちらでは 780円くらいです。

とても好きな諏訪一本木神社にお参りしました。御柱が一本だけ立っています。そこのご神木の氣が

素晴らしい。

帰り 事故渋滞で7時間かかりました。

翌々日は 茨城 つくば道 筑波山神社の昔ながらの参道にむかいます。

車一台 やっとの道 とちゅう 右折 蚕影神社へ.....

② 蚕影神社

蚕影神社は人の気配もなく鎮もっていました。石段は草むして のぼりながら 抜きました。

明治を支えたのは おんなたちの養蚕であり 養蚕が盛んなころは 参拝客でにぎわってであろう

この神社に今はおとなうひともまばらなようです。

筑波神社の姉ともいわれております。

この地方は養蚕が盛んで 小貝川 は実は蚕飼川であり 糸繰り川もあります。

神さまがお気の毒で なんとかならないものかと思いました。

すでに石垣がくずれはじめているのです。

筑波神社さん なんとかしてください。おねがいします。

そのあと 六所神社跡へ.....

③六所神社跡 祭祀跡

筑波山神社の大祭は 4月 11月の御座替祭ですが ふもとの六所神社とのあいだででおこなわれていたようです。

もともとは 夏至と冬至に行われていたので 古代祭祀の名残ではないかと思われます。

その後 神仏混合となり明治の廃仏稀釈で中善寺は取り壊されました。そしてその後

明治2年(1869年)9月、白川伯王家の白川資義を祭主とする。

白川伯王家 思い出してください。天皇の即位のとき 祝 はふり の神事を行っていた神職の家です。

もともとの神々が時代とともに とりかえられてきた経緯はここにもあります。

太陽信仰 ⇒ 筑波男ノ神 筑波女ノ神 ⇒ イザナギイザナミ

六社神社に祀られていたのは 筑波男ノ神 筑波女の神天照大神と三貴子 と蛭子の神 でしたが

明治41年にはとり壊されてしまいました。

大正2年跡地を照修徳会という宗教法人が整備しました。皇大神宮の石碑等が立っており 参拝しようとしましたが

気分がわるくなり 離れたところでお山を拝しました。

中腹と 上のほうにイワクラがあり そこまでいこうとしたのですが なにかはばかられ 途中でおりました。

中腹のイワクラには なにか燃やしたような跡がありました。

④ 筑波山 太陽信仰 レイライン

【寺野東遺跡】には冬至の日の出が筑波山の鞍部(女体山と男体山の間)からさし込みます。同様に筑波山山頂からは鹿島神宮方面の海から上ってくる太陽を拝むことが出来ます。

冬至における日の出線は夏至における日の入り線でも有ります。縄文人は鹿島神宮から筑波山に沈む太陽も参拝したのです。

【寺野東遺跡】

 関東地方の縄文遺跡は決して珍しくはないが、ここは一風変わっている。縄文人の集落跡の周囲が円形に土を盛り上げた形になっている。栃木県南部の小山市にある寺野東遺跡の「環状盛土遺構」だ。
 1995年までの調査で明らかになり、以降、同種の遺構は関東各県はじめ東北、九州でも続々と出てきた。千年間にもわたって縄文後期の人々が定住し、土木・建築の高いレベルの技術を持ったことがわかった。
【日本の史跡101選】【寺野東遺跡】から抜粋
http://www.adnet.jp/nikkei/shiseki/contents/083.html 

【寺野東遺跡】の盛土は五つに分かれ【冬至の日の出・夏至の日の入り線】には土が盛られていません。掲載した図の左右を見比べてください。

「環状盛土遺構」はスト-ンサ-クルが変形したモノと言えるでしょう。土が盛られていない部分は他に三カ所有るので他の遺跡の場所を暗示しています。

鹿島神宮の地は【夏至・冬至の太陽祭司施設】として縄文時代から極めて重要な場所だったのです。

⑤たぶせ 岸 安倍一族 天照皇大神宮教

検索していたら 天照皇大神宮教というのがありました。 見たことがある名前だ...

清和会 と関係があったようです。 ほかにもいろいろでてきました。

⇒ こちら

⑥ 天狗党は筑波山で旗揚げ 尊王攘夷だが 敬幕だった。

⇒ こちら

ちなみに幕末の天狗党は、筑波山、太平山にこもっています。

御座替祭の先頭に立つのは天狗  筑波山のとなり加波山も霊山 イワクラがあるが 天狗が大勢いたという。

 

⑦ 筑波は江戸城の守り 高尾も江戸城の守り

江戸時代に整備された、筑波山への参詣道「つくば道」. 筑波山は江戸城からみると北東の方角にあり、鬼門にあたります。かつて徳川家康は「鬼門の護り」として筑波山をあがめ、中禅寺(現在の筑波山神社)を祈願所に定めました。

その中禅寺が廃されました。

筑波のお山は巨大アンテナを立てられたことで 力を失った。 

高尾はトンネルを通されたことで力を失った。

 .......

混沌のなかに なんだか 見えてきたような気がします。

明治維新のとき 関東東北で あたらしい国をつくっていたらどうだっただろう....



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