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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



.... 2008年3月13日から16日まで、全米労働大学でイラク帰還兵士による証言集会“冬の兵士”が開かれました。多くのイラク帰還兵が集まりましたが、アメリカのメディアではほとんど取り上げられませんでした。




ジェイソン・ウオッシュバーンの証言

「ジェイソン・ウオッシュバーンです。海兵隊の伍長で、4年間に3回イラクに派遣されました、派兵のたび、交戦規定(相手の確認、軍事目標)が変わりました、振り向くたびに交戦規定が変わっている。

ある女性が通りかかり、大きな袋を持っていた、こちらに向かってくるように見えたので、私たちは、MK19銃をぶっ放した、粉塵が収まると、その袋には食料品がいっぱい詰まっていただけだと分った、我々に食料を持ってきた女性を粉々にしたのです。

暗黙の了解のもとで奨励されていたことがあった。証拠として残すための武器やシャベルを持っていくことです、爆弾を埋めるために使われるシャベルを持っていき、市民を間違って射殺した時、それを死体の上に置けば、武装勢力だったと言える、友人が言ったように、イラク人がシャベルや重そうな袋を持っていたら、撃っていいと決められていた、だから、シャベルや武器を車に積み、市民を殺害した時に死体の上に置き、交戦規則に従い、掘っていたから撃った、と言うのです」


カミロ・メヒアの証言

「息子と車にいた父親の首を機関銃で打ち落としました、首の無い死体のそばに人が立っていたが、その表情やどんな人だったかが思い出せません、人から死体のそばに立っていたのは彼の息子で子供だったと聞きました。

父親の首を落とされた息子の顔を記憶から消し去ったり、イラク人の死体と写真をとるのは、人間性を喪失しないとできないことです、戦争は人間性を奪うのです。

我々の世代は、100万人のイラク人が死に、500万人が難民となり、米兵は4千人死亡、6万人近く負傷、しかも我々は精神的病気、心的外傷後ストレス障害を抱えて帰還した。

戦争はこの国の一つの世代をまるごと間化し、イラクをまるごと破壊した、我々の人間性を取り戻すため、イラクから軍隊の無条件即時撤退を要求する、すべての帰還兵に福利厚生を要求し、イラクの人々が自ら国を再建するため補償することを要求します。」


ジェフ・ミラードの証言

「軍ではイラク人やアフガニスタン人に限らず、自分たち以外の人間をハッジと呼びます。

2005年の夏、42歩兵師団の作戦地域の交通管制地区で銃撃がありました、それはイラクで毎日起きています、スピードを出して来る車があり、機関銃手が脅威と判断し、50口径の銃弾を200発撃ちました、母親、父親、子供二人を殺し、男の子は4才、女の子は3才でした。夕方、将軍に対する報告会で、担当官がこの件を説明しました、その時、司令官のロシェル大佐が、部下の方を向いて、ハッジの馬鹿が運転を知っていたら、こんなクソみたいなことは起きなかった、と言った、周りは将校や下士官たちばかりで、私が一番下の階級でした、誰も抗議しません、首をかしげるものもおらず、全員がそのとおりだと思った、ハッジの馬鹿のせいで、こんなクソみたいなことが起きた、信じられませんでした、でも本当なんです、このことが忘れられませんでした。

ハッジという言葉が聞こえるたびに、あたりを見渡しました。あの射撃手は、このことを一生背おって生きていく、あの日、皆殺しにされたイラク人家族、それをロシェル大佐は考えない、こんな人種差別と、間化が、戦争の最高司令官に始まり、最下層の兵士まで浸透している。ハッジとは、聖地であるメッカを巡礼したイスラム教徒のことで、地元の人にとっては尊敬すべき人を指す言葉です。それをアメリカ軍は軽蔑すべき人という意味で使いました。アメリカ軍のイラク占領政策の根底には差別感情がありました。」


マイケル・デュークの証言

「私はマイケル・デュークと申します。海兵隊第一大隊、武器小隊に属し、2004年6月から12月までイラクに派遣されました。2004年10月末、僕の中隊はファルージャの基地近くにある イラク訓練センターに転進した。二回目のファルージャ侵攻・亡霊の怒り作戦のためでした。

ある日 大隊の法務官が全員を招集した。彼は大隊で軍法の最高権限を持つ人物だった。従軍記者がいないことを確かめて法務官はファルージャの交戦規定を指示した。「何が敵対的行為か、これから最も階級が低い兵卒にも、判断をまかせる」ということだった。

また「発砲偵察」という戦術を奨励した。この戦術では家や建物に踏み込むとき、危険や不安を感じたらどんな攻撃をしても良いと許可された。これで僕たちのやり方が本当に大きく変わった。それまでは、攻撃の段階的拡大とやり方で、厳しい条件の下で武器を使った。しかし今すべての住民が敵対しているとみなす。

法務官は最後にこんな質問をした。
「海兵隊の諸君 武器を持つ人間がいたらどうしますか?」誰かが声を上げた。銃を撃つ?
「違う、発砲し威圧することと射殺することは別だ。もう一度質問する。武器を持つ人間を見たら?」
「殺す!」
「双眼鏡を持つ人は?」
「殺す!」
「携帯電話を持つ人は?」
「殺す!」
「何も持たず、敵対行為が無くても、走っている人、逃げる人は何か画策しているとみなし、殺せ。白旗を掲げ命令に従ったとしても、罠とみなし殺せ。」

ファルージャで僕たちは、その交戦規定に従い最初の三日間特に激しい戦闘が続いた。ブルドーザーと戦車を使って家屋を一つ一つひき潰し、瓦礫の上を歩いた。戦闘が始まって数日後に町は静かになった。僕たちは家屋の中に隠れた。数時間から一日二日も隠れたので退屈し癇癪を起こし、やっちまおうぜと、人間は撃ちつくしたから、犬や猫や鶏など動くものは何でも撃った。

道に放置されている死体に名前をつけている隊員がいた。腐乱のランディ、胴体トニー、道に横たわる死体の頭を標的に銃の照準を調整する隊員もいた。狙いをつけて撃ち、左にそれるなら照準を調整してまた撃った。みんなでモスクの屋根にいた時、前日占拠したばかりのモスクで、陽がさしていた。さほど遠くないところに家があり、その地下室に家族全員が隠れていたようで、男数人と女数人、たくさんの子供たちが出てきて、手を振ったので、武器を持たないことを知らせようとしているのだ、と思ったが、隊員の一人がそれを見て発砲した。

彼らはみんな逃げもう見ることはなかった。いろんな家に入り込み、そこにあったアルバムの家や近所の写真を見た。今の状態と写真を比べ僕たちは大笑いした。
街の下水システムが爆弾で破壊され下水が道路にあふれ出ていた。その下水に死体がいっぱい溜まり、恐ろしい光景だった......

私は良いことをしたくて軍隊に入った。人々の役に立ちたかった。イラクでそれができると思った。私は若すぎて、浅はかで、間違っていた。何かあったことで僕が大きく変わったというつもりはありません。自分がしたいと思っていたことができたこともあったし、誇りを感じたこともあったが、みんなやるしかないからしていた。正しいことも間違ったことも、命令されれば、やるしかなかった。」


マイク・ロビンソンの証言

「2003年6月20日、強制捜査の任務につき、機関銃を持ってビルの中で仲間を援護している時、IED=手製爆弾が仕掛けてあり、足を吹き飛ばされ帰国することになった、帰国して市民生活を再開したが、怒りの発作がおきて、妻とは殴り合いの喧嘩をして、数回逮捕されそうになり、離婚した、職も失った、怒りの発作が起きて、仕事が続かない、家も失った、妻が出て行き家賃が払えなかった、友人を回り、路上やどこにでも寝た。車にいるときに、路上の人を銃撃する幻覚を見る。

銃撃し、自分にだけに爆弾の音が聞こえる、これは何だろうね?あたりは血の海で血しぶきがかかる、
毎日死ぬことばかり考えていた、頭はどう自殺しようかという考えでいっぱいだった、去年の1月19日、私の誕生日、一人ぼっちだったから、酒場で飲んで酔っ払い、....銃で頭を吹き飛ばそうと思いながら歩いていると、女友達のエリザベスから電話があり、励ましてくれたので、自殺しないですんだ。それから3才の娘と会い、エリザベスの娘だが、彼女が私の生きる理由になった。サラは、3才だが、この子がいるから生きることができた。
この子がいなければとっくに死んでいた。..........」



   戦争とは侵略されるほうだけでなく、侵略の手足となって使われる兵士たちにも大きな傷を残すのでした。心を持った人間なら、あたりまえのこと....18歳やそこらぼ青年たちが見たこと、したこと、そしてそれを語ってくれたことは映画をみていたひとの心を打ちました。心的外傷後ストレス障害は治ることがないそうです。........大学奨学金が貰える、職業訓練になり、各種給付金もある、家が持てて友人ができると言って兵士を募集します。大学に行きたい、仕事がない、どちらかといえば貧しい人が兵士になる、されるのでしょう。

    兵士を募集するときは、いいことばかり宣伝します。市民を殺す、虐待するという事実は言いません。現実には兵士にも目を失ったり、手足を失ったり、生活できなくなってホームレスになる人、幻覚に襲われ苦しむひとも大勢います。......そしてそれは明日の日本のすがたかもしれない......若い人のなかで正規雇用者が減っているという実態、そして日本の軍事予算は世界第五位(2007)という現実。

  
   わたしたち日本人にとって、もっとつらいこと、正視しなければならないことがあります。“アメリカの莫大な戦費を支えていたのは実は日本だった”というまぎれもない事実です。

日本は自衛隊を派遣するばかりでなく、米国債を買うことで、アメリカのイラク戦争を支えていた........(911の前とファルージャ大攻撃の直前に米国債の購入額が増加しているのは偶然とは思えません。)100万から160万人といわれるイラクの死者、(そのうち70%は女子どもでした)そして500万人の家をうしなったひとたちに対して、どんな顔ができるというのでしょう。

   語り手とはなんだろう.......知らなかったといいながら、先日書いたように自分のお金(預貯金、年金、税金)が国の予算としてつかわれ、アメリカの派兵を支え、イラクの子どもたちが町を家を壊され、血を流し、殺され、苦しんでいる.....間接的にひとびとを苦しめることに加担している。それでも日本の子どもたちに、愛や平和を語れるのだろうか.......”せかいいちうつくしいぼくの村”の読み聞かせができるのだろうか?......被害者のような顔で”わたしがちいさかったときに”を語れるのだろうか? 
わたしにとっては深刻なジレンマでした。でも、あなたにつたえられて すこしほっとしています。


シリーズ 冬の兵士 良心の告発

イラク戦争がどういうものだったか片鱗を見ることができます。

勇気のある方はどうぞ

ファルージャ白りん剤 ボロくずのように見える写真を見てください。

ファルージャ

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