リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

くれくれで暮れる12月

2013年12月08日 | 日々の風の吹くまま
先月の「フィランソロピー・デイ」の昼食会に招待されてから、ずいぶん(きのう書いた「慈善
心、慈悲心、博愛精神、親切心、思いやり等々」にさらに純粋な「善意」も含めての)charity
について考えて来た。Charityの根源が喜怒哀楽のどれなのかはわからないけど、ワタシ
は「おかわいそうに」という気持で「施し」をすることには少なからずためらいがあって、でも
逆に、何とかして自分の状況を良くしようとがんばっている人には頼まれなくても手を貸した
くなるところがある。「天は自らを助くる者を助く」と言うから。でも、ワタシは聖人じゃないし、
聖人になるつもりもないけど・・・。

12月は、テレビには寄付を求める慈善団体のコマーシャルが溢れ、家にはクレジットカード
情報を書き込むだけの寄付用紙が殺到し、モールでは救世軍の慈善鍋がシャンシャンとい
う鈴の音に乗せて寄付を募る、「give、give、give」のチャリティの季節。SNSが社会運動や
募金の手段に加わった最近は寄付する人も増えているだろうと思ったら、実は減っているそ
うで、フェイスブックでは「いいね」をクリックしただけで「やることはやった」と気分を良くする
slacktivist(ぐうたら運動家)が蔓延っているという話だった。

そういう現象を「チャリティ疲れ」と呼ぶ向きもあって、わからなくもないような気がする。もち
ろん、見返りのないことにはたとえ慈善であってもお金を使わないという人も、見返りの有無
に関わらず他人さまのためにお金を使いたくないという人も、単にない袖は振れないという
人もいるだろうけど、あんがい、世の中の不正義を正そうという(自分たちの)崇高な理想に
共感して援助しなさい!と、眉間にしわを寄せて上から説教する運動家たちにうんざりして
来たのかもしれない。まあ、今どきの慈善団体の「give、give、give」にはまるで「金くれ、金
くれ、金をくれ」みたいな響きがあって、ついあまのじゃく精神がむくむく・・・。

本来のcharityは人のために何か自分にできることを自発的にする「心」であって、お金や
モノのように形のあるものはその表現手段のひとつに過ぎないし、強要されてするものでも
ないし、したくないけどしなければならないというわけでもない。組織を作ってやるのは集金
力が高まるからで、そのための「職業」やキャリアまでできるわけだけど、charityそのもの
はあくまでも個人の主体的なものだから、経済的な地位に関係なく、誰にでも何かしらでき
ることがあると思う。要は、世の中に対する心の持ちよう・・・。