尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

裁判員制度と精神鑑定ー医事高裁の必要性

2020年01月28日 22時49分18秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 裁判員裁判死刑判決が出た事件で、控訴審で破棄、無期懲役となったケースが7件あるそうだ。そのうち5件は「量刑」をめぐる判断で、いずれも最高裁で無期懲役が確定している。一方、最近になって2例続けて「心神耗弱」を認めて一審死刑判決を無期懲役に減刑する判決が出た。2020年1月27日に大阪高裁は「淡路島5人殺害事件」の被告に死刑判決を破棄して無期懲役を宣告した。もう一つは2019年12月5日に東京高裁で出た「熊谷6人連続殺害事件」のペルー人被告の裁判である。
(淡路島連続殺害事件を報じるテレビ番組)
 日本は「国民が死刑を判断する世界唯一の国」である。ヨーロッパ各国にも「参審員制度」がある国があるが死刑制度は廃止されている。アメリカは州によって死刑制度があったりなかったりするが、「陪審員制度」のため「有罪無罪の判断」だけを行い「量刑」には関わらない。もちろん重大事件で有罪を認定すれば、事実上死刑判決につながるということはあるが、死刑判決そのものを決定するわけではない。その他の死刑制度がある国では、国民の司法参加制度がないことが多い。

 国民を抽選で選んで死刑判決が予測できる裁判に関わらせるというのは、ちょっと世界の常識では考えられない「残酷」な制度だと思う。だから裁判員制度はおかしいという人もいるが、おかしいのは死刑制度の方だ。裁判員制度を導入するなら、死刑を廃止するべきだったのだ。そのことはともかく、裁判員裁判の判決が上級審で破棄されると、マスコミでは「市民感覚とずれている」などと評することがある。しかし「心神耗弱」の場合減刑するというのは、法律で決まっていることだ。「市民感覚」の方が現行法とずれていると言うべきだろう。
(熊谷連続殺害事件を報じるテレビ番組)
 熊谷の事件も淡路島の事件も大変悲惨な事件だった。犯人性に疑問はなく、精神鑑定で責任能力が認められれば、今までの日本の判例に従う限り死刑判決は避けられない。争点は「責任能力の有無」だけと言っていいだろう。どちらの事件も、あまり詳しく覚えているわけではないものの、当初から「犯人」の言動には不可解なものがあった。報道で見ている限りでは、心神喪失心神耗弱の可能性は高そうに思えた。そして僕が思うに、その判断は裁判員が行うべきものなのか

 「事実認定」あるいは「量刑」の判断は、時にズレがあり得るとしても「市民感覚」を生かせるだろう。だけど、精神鑑定の判断に必要なものは「市民感覚」じゃなくて「専門的知見」だろう。裁判官ならば今までの経験もあるだろうし、判例も知ってるだろう。しかし、特に精神疾患に知識を持たない一般人を集めて、精神鑑定の中味を判断しようというのは無理がある。例えば発熱や咳がある人が「インフルエンザ」か「ただの風邪」か、はたまた現在問題の「新型コロナウィルス」なのか、「市民感覚」で判断するもんじゃない。医師による検査こそが必要であり、その結果も医師が判断するべきものだ。

 もっとも精神疾患の場合、なかなか難しい問題もある。何しろ医者の間でも見解が食い違うことも多い。鑑定の場合だけじゃなく、一般の治療でも医者で判断が違うことがある。ウィルス等で発症する病ではなく、症状も様々である。さらに「心神喪失」「心神耗弱(こうじゃく)」という概念も法律の中にしかない。統合失調症であっても、人によって様々なレベルや症例があり、どうなると「心神喪失」と判断でき、ある場合は「心神耗弱」、どういう場合は「責任能力あり」なのか、その境目の見極めは素人では判断できない。さらに「人格障害」の場合は「性格に偏りがあるが責任能力あり」とされる。

 その判断が死刑か無期かを分けるわけだが、それは裁判員には難しいと思う。いろいろ言えるだろうが、責任を持った判断は下しにくい。じゃあ、どうすればいいんだろうか。一つは日本も「陪審員制度」に変える、つまり「有罪か無罪か」だけを判断する。そうすれば量刑判断も要らなくなる。その方がいいんじゃないだろうか。しかし、多くの事件では有罪無罪の判断は一回の審議で済んでしまいそうだ。本人が最初に認めれば、即有罪認定となって、冤罪も起きやすくなる。量刑を決めるためには、「情状」の審理をする必要がある。だから何故事件が起きたかをある程度明らかにすることも出来る。 

 だから裁判員と陪審員では一長一短あることになる。もう一つの論点として、そもそも医療をめぐる裁判が刑事、民事含めて非常に多いという現状をどうすればいいかという問題がある。高齢化がさらに進み、認知症をめぐる裁判もさらに多くなるだろう。国民だけでなく、裁判官も医者ではない。そうなると医学の専門家を交えた特別の裁判所を設けたほうがいいのかもしれない。東京高裁に「知的財産高裁」が設置されて、知財問題の事件は控訴審段階で東京高裁で担当することになっている。

 同じように医療問題の判断には、東京高裁(だけじゃ足りないかもしれないから大阪高裁も必要かも)に「医事高裁」を設置し、医学者も特別裁判官として採用する。医学的判断が必要になった場合、一審をそこで中断して医学的争点に限って医事高裁に判断を委ねる。そこでの審議を経て、一審裁判を再開する。例えばそんなやり方である。再審事件で鑑定をめぐって争う場合も医事高裁で医学判断を行う。民事訴訟で病院を訴えているような場合も、医学的判断は医事高裁で行う。もちろんその判断に不満があれば、さらに最高裁で争うことが出来る。医学者にもいろんな人がいるから、誰を選ぶかで問題もあると思うが、シロウトがやるよりも間違いが少ないような気がする。
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