尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『コレラの時代の愛』、壮大な愛の神話ーガルシア=マルケスを読む⑤

2024年07月11日 22時24分22秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス連続読書シリーズの5回目はいよいよ『コレラの時代の愛』(木村榮一訳)である。「いよいよ」と書くのは、実は今回のメインイヴェントがこの本なのである。前回取り上げた『迷宮の将軍』(1989)の前、1985年に発表された作品である。しかし、翻訳の順番は逆になった。『迷宮の将軍』は2年後の1991年に翻訳が出たのに対し、『コレラの時代の愛』はなんと2006年まで翻訳されなかった。これほど世界的に評価された作家(82年にノーベル文学賞受賞)の新作が何故20年以上も紹介されなかったのか。最大の理由は長大さだろう。ガルシア=マルケス最長の作品で、字がびっしりで500頁もある。

 別に特に読みにくい作品ではない。だけど、何しろ悠然たる語り口で、ひたすら大昔の恋愛物語を読まされる。フローベールと比較されるらしいのも納得の大小説である。僕はこの本を読むのに5日掛かった。先週の関東は猛暑だったので、週末を出掛けずにこの本に当てたから5日で終わった。この小説は表面的には大ロマンスというか、半世紀にわたる大恋愛を事細かに描いている。その部分にフォーカスを当てたのか、2007年に映画化されている。日本でも2008年に公開されているが、見た記憶がない。そんな映画あったっけという感じ。マーク・ニューウェル監督、ハビエル・バルデム主演だが、ほとんど評判にならなかったと思う。DVDは出ているし、配信もあるようなので、いつか見てみたい。映像で見れば背景の理解は深まるだろう。
(映画『コレラの時代の愛』)
 この本は死んだ黒人ジェレミーアの検死に訪れた医者フベナル・ウルビーノ博士の話から始まる。チェス友だちだった博士は、彼の遺書を読んで衝撃を受ける。だから、その物語なのかと思うと、今度はウルビーノ博士の家庭事情が詳細に語られる。81歳の博士の家ではオウムが逃げ出していて、捕まえようとした博士はハシゴから転落して死亡してしまう。何でこの家にオウムがいて、どんな意味があるのかはそれまでにたっぷりと語られてる。しかし、主人公のように語られていた医者があっという間に死んでしまって、この小説はどうなるんだ。と思うと未亡人になったフェルミーナ・ダーサのもとを河川運輸会社社長のフロレンティーノ・アリーサが弔問にやってくる。このフロレンティーノこそが真の主人公だったのである。そこまでで80頁もある。

 いつ頃の話かというと、1930年だと思われる。何故かというと、映画『西部戦線異状なし』を見るシーンがあるからだ。ドイツの作家レマルクが第一次世界大戦の「西部戦線」を描いて世界的なベストセラーになった。アメリカのルイス・マイルストン監督によって映画化されたのが1930年。第3回アカデミー賞で作品賞を受賞している。日本でも同年に公開されたので、多分コロンビアでも同じだろう。さて、そこから大きく話が遡る。フロレンティーノは弔問の場でフェルミーナに変わらぬ愛の告白をする。

 彼はこの瞬間を51年9ヶ月と4日待ち続けたのである。実は博士とフェルミーナが結婚する数年前、フロレンティーナとフェルミーナはひそかに婚約していたのである。二人の交際は父の反対でつぶされたが、彼はいずれフェルミーナが未亡人になる日を待ち続けた。計算すると1870年代後半から1930年代に至る半世紀以上の話ということになる。その間登場人物が多すぎて、人間関係がこんがらかってくるが、ただフロレンティーナのフェルミーナへの恋愛感情は不変である。でも、そうなると男の方は70代後半、女の方も70代前半になっている。この愛は異常なものか、それとも純愛の極致か。
 (マグダレナ川)
 舞台となるのは、コロンビアを南北に流れる大河、マグダレーナ川の周辺をめぐって展開する。若きフェルミーナは父の命令で地方に送られる。戻ってきたら、彼女は電信局員のフロレンティーナに幻滅してしまった。フロレンティーナは「私生児」だが、伯父が河川運輸会社を経営していた、結局はその後継者となった。そして最後は川を遡るクルーズの道筋で終わる。その時代は日本でもそうだったが、コレラが流行することが多かった。「内戦」も続いているが、同時に感染症との戦いの時代でもある。医者のウルビーノ博士も、流行地域を周遊する船会社社長のフロレンティーナも、コレラの時代を生きていた。だから「コレラの時代の愛」と名付けられるわけである。舞台となる町はよく判らないが、映画はカリブ海に面した世界遺産の町カルタヘナで撮影されたらしい。
(カルタヘナの町並み)
 過去の風俗が細かく描写され、詳しすぎるとも思うけれど、読みやすくて面白いのは間違いない。20世紀後半に書かれた「最後の19世紀小説」と言えるかもしれない。しかし、根本的にフロレンティーナって何なのよと思ってしまうのも事実。50年間をひたすら昔の彼女を思い続けた。その間、ずっと童貞を守り続ける決意だったが、ある種のハプニングで性体験を持ってしまう。それ以後弾けたように数多くの女性と関係を持つが、一度も結婚しなかった。心の奥にフェルミーナがいたからである。でも信頼出来る秘書、愛してくれる若い女性などもいるのに、70歳を越えた昔の彼女を思い続けるって不自然じゃないか。

 しかし、文字で書かれた小説だからこそ、これは「壮大な愛の神話」に思えてくる。だけどなあ、どんな素晴らしい女性と昔付き合っていたとしても、その人が別の相手と結婚して子どもも生まれたら、もう諦めるもんだろう。心で思っているだけだとしても相手に迷惑だし、ストーカーっぽくて不気味。世の中に「絶対」はなく、いつの間にか別の人を愛してしまうのが普通だろ。と思ってしまうんだけど、この愛がどこまで普遍性があるか。一度読んで確かめてみる価値はある。面白いのは間違いないし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする