大江健三郎「叫び声」という小説がある。1962年の「群像」11月号に一挙掲載されて、1963年1月に講談社から刊行された。「遅れてきた青年」(1962)と「日常生活の冒険」(1964)の間に書かれた長編小説である。大江健三郎の長編は重厚長大なものが多いが、これは「芽むしり仔撃ち」ととともに、中編と呼んでもいい長さの小説である。全小説版では105ページになっている。この小説は昔講談社文庫版で読んでいて、「小松川事件」をモデルにした暗く孤独な犯罪小説という印象が残っていた。しかし再読してみたら、非常に興味深い傑作だった。
(講談社文芸文庫版)
この小説は若者たちの「共同体」の崩壊を描いている。スラブ系アメリカ人のダリウス・セルベゾフと若い日本人3人はヨットでアフリカを目指すとことを夢見て共同生活をしていた。それは「僕」にとって「黄金の青春の時」だった。セルベゾフは朝鮮戦争に従軍中に癲癇の発作が再発し本国に帰されたが、父が死んで遺産を手にすると日本に戻って仲間を探し始めた。梅毒恐怖症の20歳の「僕」、黒人兵と日系アメリカ人の子である17歳の「虎」、日本を脱出しようと北海道からソ連へ向かって失敗した16歳の朝鮮人「呉鷹男」の3人である。
セルベゾフは「悪い噂」(同性愛)もあるが、今は百科事典のセールスをして金を貯めて、ヨット「友人たち(レ・ザミ)号」を建造中である。愛車の「ジャガー」をヨーロッパ風に「ジャギュア」と呼んで、3人に使わせてくれる。彼らは皆何かしら性的な悩みや強迫観念を抱えているが、それでも前半では夢のような共同生活を送っている。後の「洪水はわが魂におよび」にも出帆することを夢見る「自由航海団」というグループが出て来た。石原慎太郎の小説では高校生でもヨットを乗り回し、作家自身もカリフォルニアからハワイへの航海レースに参加した。だが大江作品では航海は「夢想」の対象であり、そこには紛れもなく階級的格差がある。
(講談社文庫版)
セルベゾフは仕事で神戸に行ったときに事件を起こす。3人は驚いて「ジャギュア」で一路神戸を目指した(まだ高速道路がない時代である)。着いてみたらもう釈放されていたが、それをきっかけに国外追放になって共同体は崩壊していく。スポンサーがいなくなって経済的に困窮し、「犯罪」に向かったのである。「僕」は結核を病んで闘病生活を送り、「虎」は痛ましい死を迎える。一人になった「呉鷹男」は「怪物」になることを求めて、夢遊状態のような中でかつて在学していた定時制高校の屋上で殺人事件を起こしてしまう。5年後、「僕」が呉鷹男に面会したときには、彼は死刑判決を目前に控えて犯罪を認めていた。
呉鷹男は犯行を新聞社に電話して大反響を巻き起こしたことになっているが、これは実話に基づいている。それが1958年8月17日に起きた「小松川事件」で、その名前は都立小松川高校の屋上で起こったことによる。犯人の李珍宇(通名金子鎮宇)は18歳で同校定時制1年生だった。彼はまた4月に起きた殺人事件でも起訴され、2件の殺人で死刑となった。(この事件は「自白」以外に証拠がなく、冤罪説もある。)マスコミに知らせるという「劇場型犯罪」の第一号と言われている。李は獄中でカトリックの洗礼を受け、支援者の朴壽南に充てた膨大な書簡集が公刊されている。大島渚監督の映画「絞死刑」のモデルになったり、多くの作家、評論家に強い影響を与えた。
(逮捕を知らせる新聞報道)
多くの人に衝撃を与えたのは、犯人が10代の朝鮮人だったことで、日本社会の責任という観点が浮上したことによる。(17歳だったら刑訴法上死刑判決は出せない。)またマスコミ(読売新聞)への連絡、獄中でドストエフスキーを読むなど「もう一人の永山則夫」と言いたいような存在だったこともある。粗暴犯というより「実存的犯罪者」の側面があって、そこに多くの作家、批評家が注目した。しかし、今になって読み返すと、「被害者の視点」が欠落しているのは紛れもない。被害者への想像力が及ばないところ、「生の躍動」(エラン・ヴィタール=ベルクソンの用語)の欠如にこそ特徴があった感じがする。
初期の大江作品には、「怒れる若者たち」(アングリー・ヤング・メン)が多く登場する。「怒れる若者たち」とは、50年代後半に登場したイギリスの若い作家、劇作家たちを指す言葉である。大江健三郎の「われらの時代」には、登場人物が結成しているジャズバンドを「アンハッピー・ヤング・メン」(不幸な若者たち)と名付けていた。障がい児が生まれてから、作品的には「個人的な体験」以後の作品とそれ以前では多くの違いが見られる。特に長編では「犯罪」がテーマになることが多い。「叫び声」ではむしろ前半にこそ輝きがあり、後半の呉鷹男の犯罪の部分には判りにくさがあると思う。そこに小説の難しさがある。
もう一つ、初期作品には「性」、特に「同性愛」が重大な意味を持つものが多い。長編の「われらの時代」「遅れてきた青年」「叫び声」の他に、中編「性的人間」も同じ。今回初めて単行本に収録された「ヴィリリテ」は「男娼」の世界だし、「善き人間」では妻のいる男が若い男性とも関係を持つ。その様子を夏のホテルでペットの世話をしている少年の目から描くという秀抜な作品で、何故今まで埋もれていたのか不思議。ただし、同性愛を「性的倒錯」と呼ぶなど今から見ると時代的制約もある。そうではあっても、「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)のような描写は感じない場合が多いと思う。その事も含めて「初期大江作品で同性愛がどのように描かれているか」は重要な検討課題だと思うが、まだ誰も本格的に論じてはいないようだ。
(講談社文芸文庫版)
この小説は若者たちの「共同体」の崩壊を描いている。スラブ系アメリカ人のダリウス・セルベゾフと若い日本人3人はヨットでアフリカを目指すとことを夢見て共同生活をしていた。それは「僕」にとって「黄金の青春の時」だった。セルベゾフは朝鮮戦争に従軍中に癲癇の発作が再発し本国に帰されたが、父が死んで遺産を手にすると日本に戻って仲間を探し始めた。梅毒恐怖症の20歳の「僕」、黒人兵と日系アメリカ人の子である17歳の「虎」、日本を脱出しようと北海道からソ連へ向かって失敗した16歳の朝鮮人「呉鷹男」の3人である。
セルベゾフは「悪い噂」(同性愛)もあるが、今は百科事典のセールスをして金を貯めて、ヨット「友人たち(レ・ザミ)号」を建造中である。愛車の「ジャガー」をヨーロッパ風に「ジャギュア」と呼んで、3人に使わせてくれる。彼らは皆何かしら性的な悩みや強迫観念を抱えているが、それでも前半では夢のような共同生活を送っている。後の「洪水はわが魂におよび」にも出帆することを夢見る「自由航海団」というグループが出て来た。石原慎太郎の小説では高校生でもヨットを乗り回し、作家自身もカリフォルニアからハワイへの航海レースに参加した。だが大江作品では航海は「夢想」の対象であり、そこには紛れもなく階級的格差がある。
(講談社文庫版)
セルベゾフは仕事で神戸に行ったときに事件を起こす。3人は驚いて「ジャギュア」で一路神戸を目指した(まだ高速道路がない時代である)。着いてみたらもう釈放されていたが、それをきっかけに国外追放になって共同体は崩壊していく。スポンサーがいなくなって経済的に困窮し、「犯罪」に向かったのである。「僕」は結核を病んで闘病生活を送り、「虎」は痛ましい死を迎える。一人になった「呉鷹男」は「怪物」になることを求めて、夢遊状態のような中でかつて在学していた定時制高校の屋上で殺人事件を起こしてしまう。5年後、「僕」が呉鷹男に面会したときには、彼は死刑判決を目前に控えて犯罪を認めていた。
呉鷹男は犯行を新聞社に電話して大反響を巻き起こしたことになっているが、これは実話に基づいている。それが1958年8月17日に起きた「小松川事件」で、その名前は都立小松川高校の屋上で起こったことによる。犯人の李珍宇(通名金子鎮宇)は18歳で同校定時制1年生だった。彼はまた4月に起きた殺人事件でも起訴され、2件の殺人で死刑となった。(この事件は「自白」以外に証拠がなく、冤罪説もある。)マスコミに知らせるという「劇場型犯罪」の第一号と言われている。李は獄中でカトリックの洗礼を受け、支援者の朴壽南に充てた膨大な書簡集が公刊されている。大島渚監督の映画「絞死刑」のモデルになったり、多くの作家、評論家に強い影響を与えた。
(逮捕を知らせる新聞報道)
多くの人に衝撃を与えたのは、犯人が10代の朝鮮人だったことで、日本社会の責任という観点が浮上したことによる。(17歳だったら刑訴法上死刑判決は出せない。)またマスコミ(読売新聞)への連絡、獄中でドストエフスキーを読むなど「もう一人の永山則夫」と言いたいような存在だったこともある。粗暴犯というより「実存的犯罪者」の側面があって、そこに多くの作家、批評家が注目した。しかし、今になって読み返すと、「被害者の視点」が欠落しているのは紛れもない。被害者への想像力が及ばないところ、「生の躍動」(エラン・ヴィタール=ベルクソンの用語)の欠如にこそ特徴があった感じがする。
初期の大江作品には、「怒れる若者たち」(アングリー・ヤング・メン)が多く登場する。「怒れる若者たち」とは、50年代後半に登場したイギリスの若い作家、劇作家たちを指す言葉である。大江健三郎の「われらの時代」には、登場人物が結成しているジャズバンドを「アンハッピー・ヤング・メン」(不幸な若者たち)と名付けていた。障がい児が生まれてから、作品的には「個人的な体験」以後の作品とそれ以前では多くの違いが見られる。特に長編では「犯罪」がテーマになることが多い。「叫び声」ではむしろ前半にこそ輝きがあり、後半の呉鷹男の犯罪の部分には判りにくさがあると思う。そこに小説の難しさがある。
もう一つ、初期作品には「性」、特に「同性愛」が重大な意味を持つものが多い。長編の「われらの時代」「遅れてきた青年」「叫び声」の他に、中編「性的人間」も同じ。今回初めて単行本に収録された「ヴィリリテ」は「男娼」の世界だし、「善き人間」では妻のいる男が若い男性とも関係を持つ。その様子を夏のホテルでペットの世話をしている少年の目から描くという秀抜な作品で、何故今まで埋もれていたのか不思議。ただし、同性愛を「性的倒錯」と呼ぶなど今から見ると時代的制約もある。そうではあっても、「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)のような描写は感じない場合が多いと思う。その事も含めて「初期大江作品で同性愛がどのように描かれているか」は重要な検討課題だと思うが、まだ誰も本格的に論じてはいないようだ。