尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「南朝研究の最前線」ー建武の新政と南朝を見直す

2020年12月03日 22時18分19秒 |  〃 (歴史・地理)
 呉座勇一編「南朝研究の最前線」(朝日文庫)を読んだ。原著は2016年に洋泉社から出たが、すでに絶版となったという。早いなと思ったら、洋泉社は今年初めに倒産していた。うっかり気付かなかったが、そう言えば歴史新書や「映画秘宝」も最近見なかった。歴史系の新書をたくさん出していたが、若手研究者の論文が硬すぎることも多かった。文庫化に際して書き直しもあったようで、読みやすい。(「信長研究の最前線」も朝日文庫から出ている。)

 1333年に鎌倉幕府が滅びた後で、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まるもすぐに崩壊。足利尊氏が征夷大将軍となって、室町幕府が始まる。後醍醐天皇は奈良県南部の吉野に逃れ(南朝)、尊氏は新しい天皇(北朝)を立てた。この南北朝の争乱は1392年まで続いた。戦前には南朝が正しいとされ、正統たる後醍醐天皇がいるのに背いた足利尊氏は「日本史上最悪の逆賊」とされた。しかし、今の皇統は北朝の子孫なんだけど…と思った人は当時もいた。

 僕は小学校時代のテストで「後醍醐天皇はどこで政治をお取りになりましたか」と聞かれて、「京都」と書いて×を付けられたことを今も覚えている。「建武の新政」のことだと思ったのである。しかし、高齢だった先生は多分「吉野朝時代」という意識だったのだろう。僕からしたら「蒋介石の国民党政府はどこにありましたか」という問題で「南京」と答えたら、実は「台北」が正解だったといったような感じだ。南朝なんて所詮「逃亡者」だとしか思ってなかったのである。
(後醍醐天皇)
 戦後になったらみんな同じように感じていたと思うから、戦前の反動もあって南朝研究は遅れた。大体「負けた側」なので史料も残りにくいのである。歴史的には鎌倉、室町、安土桃山、江戸と「武士の時代」が続くわけで、「建武の新政」だけが異例である。「天皇親政」がベストと考える皇国史観に立つならともかく、歴史を普通に見るなら「反動期」になる。歴史の本流じゃないとなると、研究の対象にもなりにくい。僕も武士の消長には関心があったが、南朝は谷崎潤一郎吉野葛」にあるような滅びた後南朝哀話のロマンの対象でしかなかった。

 それが20世紀末になる頃から、どんどん南朝研究が進み定説もどんどん変わっていることがこの本でよく判る。「後醍醐天皇が貴族にばかり恩賞を与えて、武士をないがしろにしたので武士が背いた」的な教科書記述は今や成り立たない。建武政権は「二条河原の落書」みたいに大混乱していただけではなかった。きちんと機能していたし室町政権に引き継がれたものもあった。行政官としての貴族は案外共通していたようだ。僕の世代だと網野善彦氏の「異形の王権」(1986)の影響が大きく、つい後醍醐天皇の「異常性」を強調したくなるが、それだけで見てはいけない。
(足利尊氏)
 後醍醐天皇は足利尊氏をきちんと処遇していたが、最後の執権・北条高時の遺児、北条時行を担ぎ上げた反乱が関東を席巻したとき、弟直義を援助するために勅許を得ずに鎌倉へ赴いた。勝利後も鎌倉を動かずにいたら、新田義貞らの討伐軍を送られた。「八方美人」で定見がなかったらしく、また後醍醐への「忠誠心」も篤かった尊氏が、多くの武士たちの要望をになう形で武家政権を樹立することになった。「歴史的必然」とは言えない。

 南朝に仕えた武士たちに関しては、新田義貞楠木正成の新知見が興味深かった。六波羅探題を滅ぼした足利尊氏鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞(にった・よしさだ)は、ちょっと見ると同格の功績のように見える。両者はともに源氏の系譜をひく関東の名族だが、鎌倉時代の両者の社会的位置には雲泥の差があった。北条氏と長く姻戚関係を結んだ足利氏に対し、新田義貞は建武以前には「無位無冠」の東国武士にすぎなかった。むしろ新田氏は足利一門と見られていたのが鎌倉時代の実態だという。

 楠木正成(くすのき・まさしげ)は戦前には「日本一の大忠臣」として小学校教育で教え込まれる存在だった。今は「太平記」を読んでないと知らない人もいるかもしれない。戦後の研究では、河内の土豪的な「悪党」(荘園を荒らし回るような中世武士)と言われてきた。確かにそのような可能性もあるが、建武政権ではちゃんと任官しているんだから、きちんとした武士のはずだ。最近の研究では、むしろ北条氏の被官として河内に行ったらしい。武士は出自の地名を名乗るものだが、どうも駿河(静岡県東部)の楠木村が出自の地として有力になっているらしい。
(皇居前の楠木正成像)
 もう一つ挙げると退潮著しい南朝勢力の中で、一時九州を制圧した懐良(かねよし)親王の「征西将軍府」の実態はどんなものだったか。「良懐」と名乗って明に入貢したと明書にあるが、それは正しいのか。その他、北畠親房・顕家の評価、後醍醐天皇と密教の深い関係など興味深い問題が次々と論じられる。僕はこの手の「一般にはちょっと難しめかも」と思う歴史本を多くの人に薦めたいので、あえて紹介した次第。南朝は室町幕府に比べて史料が少ない中、いろんな工夫を重ねて実証研究を進める大切さと面白さを感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする