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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

免田栄さんの逝去を追悼する

2020年12月06日 21時59分43秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 2020年12月5日、福岡県大牟田市の老人施設に入っていた免田栄さんが亡くなった。95歳。1983年に日本で初めて確定死刑囚の再審が認められて無罪判決を受けた人である。死刑囚から無罪を勝ち取った事件は日本で(現在のところ)4件を数えるが、免田さんはその後も人権運動に関わった。2001年にはフランス、2007年にはニューヨークの国連本部へ出掛け、冤罪救援死刑廃止を訴えた。そこが他の人と違う免田さんの凄いところだった。

 前に書いたこともあるが、免田さんなどの再審請求のことはマスコミが報じないので、僕は全然知らなかった。1970年代には韓国の軍事独裁政権に対する民主化運動が盛んになったが、政権側の弾圧も厳しかった。また同じ頃ソ連ではノーベル賞作家ソルジェニーツィンが国外追放されるなど、反体制派に厳しい弾圧が続いていた。イデオロギーは別だが、世界には自由がない国があるんだと強く印象づけられた。その時点では、日本には「政治犯」なんていないし、死刑制度はあるが「無実の死刑囚」なんているわけがないとナイーブに思っていたのである。

 その頃差別に基づく冤罪だとして狭山事件の救援運動が盛んになっていた。そんな中で冤罪事件への関心が高まったのか、いくつかの本も出るようになった。そういう本を読むと、日本の事件捜査や刑事裁判には大きな問題があり、冤罪を訴えている死刑囚が何人もいると書いてあった。僕はすごく驚いてしまって、韓国やソ連を非難している場合じゃないなと思った。

 先に再審無罪になったのは4件あると書いたが、他の事件、帝銀事件(平澤貞通)、牟礼事件(佐藤誠)、波崎事件(富山常喜)、名張毒ぶどう酒事件(奥西勝)、三崎事件(荒井政男)などの事件はついに再審開始を見ず、獄中で死亡した。またハンセン病差別が問題になっている菊池事件、共犯者が恩赦で減刑されながらもう一人が執行された福岡事件のように、残念にも死刑執行されてしまった事件さえある。では免田栄さんは外部に知られることもない中で、どうして死刑台から生還することが出来たのだろうか。

 事件そのものは1948年12月30日未明に起こった熊本県人吉市の一家4人殺しである。1950年3月23日に、熊本地裁八代支部死刑判決を受け、1951年3月19日に福岡高裁で控訴棄却、同年12月25日に最高裁は上告を棄却した。この日付を見れば判ると思うが、当時の裁判はいかに急いで行われたかが判る。この日付を見るだけで、ちゃんと審理されなかったことが判る。免田さんはアリバイを主張したが、成立直後の日本国憲法で厳しく禁止された拷問を受けていた。事件の詳しいことは、熊本日日新聞社編「検証免田事件」がまとまっている。(増補版あり。)
(免田事件年表)
 免田さんは「再審」という仕組みがあることを教わり、獄中で何度も再審請求を続けた。当初は一人でやったこともあり、全く門前払い状態だったが、1954年に行った第3次再審請求1956年に再審開始の決定が出された。裁判長の名前を取って「高辻決定」と呼ぶ。この決定は検察側の抗告を受け福岡高裁で覆ってしまった。この時に再審が開かれていたならば、免田さんは20年以上早く無罪判決を受けられていたのである。

 「無実の死刑囚」なんて絶対に認めないと検察側の抵抗は激しかった。しかし、一度でも再審開始決定が出た死刑囚を執行することは、どんな無情な法務大臣でもサインをためらうだろう。免田さんも必死に再審請求を繰り返したが、高辻決定が免田さんを救ったのだと思う。4次、5次請求も棄却され、認められたのは1972年に行った第6次請求だった。この時点では、すでに免田さんだけではなく日弁連挙げての支援態勢が作られ、支援者も現れていた。1976年に地裁で棄却されたが、1979年には福岡高裁で再審開始決定が出た。そして1980年に検察側の抗告が最高裁で退けられ、ついに「死刑囚のやり直し裁判」という空前の裁判が始まったのである。
(1983年の再審無罪判決)
 1983年7月15日に再審無罪判決が言い渡された。明白にアリバイ成立を認めていて、完全な「真っ白判決」である。1970年代後半には最高裁で「白鳥決定」(「疑わしきは被告人の有利に」は再審事件でも適用される)など再審開始に有利な動きがあった。それらはただ裁判官が出したというのではなく、多くの事件関係者救援運動家弁護士などの長年の苦労が実ったものだと言える。その上で免田さんの無罪判決があった。続いて財田川事件(谷口繁義さん)、松山事件(斎藤幸夫さん)、島田事件(赤堀政夫さん)と死刑囚の無罪判決が続いた。
(左から免田さん、谷口さん、斎藤さんの死刑囚無罪事件の3人)
 ちょっと事件の紹介で長くなったが、もう40年近い前のこととなって、社会科教員でも若い人だと知らない人がいる。僕は小池征人監督の記録映画「免田栄 獄中の生」(1993)の上映会を地元でやったことがある。この映画はキネマ旬報文化映画ベストワン、毎日映画コンクール記録映画賞を受けた傑作ドキュメンタリーである。当日は映画上映と免田さんの講演を行った。映画上映時に映写機器のトラブルがあって、講演の中身は全然覚えていない。(トラブルは完全に会場側の問題で、確か他会場の機材を取り寄せた。)

 2次会にも参加した免田さんとは大いに飲んだような記憶がある。こっちも飲んでしまったので、話の中身は覚えていない。豪快に飲み食べ語る人だったと思う。免田さんは社会復帰後に伴侶を得て、それが良かった。2013年に「死刑再審無罪者に対し国民年金の給付等を行うための国民年金の保険料の納付の特例等に関する法律」が議員立法で成立した。冤罪で囚われていたから年金に加入できなかった。国は責任を持つべきだとする「特例法」である。成立後に免田さんは未納分を一括支払いして、その後国民年金を受けられるようになった。実質免田さん一人のための特例法だ。この問題は報道されるまで気づきもしなかった。

 あくまでも「国家責任」を見逃さなかった免田さんは凄かった。「一時金」などでの解決ではなく、あくまでも「年金受給権」を求めたのである。また免田さんは多くの死刑囚を見送って、単に冤罪だけでなく「死刑廃止」の重要性を訴え続けたことも忘れてはいけない。大切な人を失ったが、95歳は「大往生」だろう。
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