苦行に励んでいたゴータマ・ブッダが、スジャータの乳粥を飲み干して「苦楽中道」の真理に目覚めた、というのは、あまりにも有名なエピソードだ。故郷カピラヴァーストでの、楽しい王家の生活。インドの山奥での、苦しい修行の日々。「真実は、その中間にある」というわけだ。
実際のところ、苦行には高い効果がある。欲望を抑えるために、これほど有効なものは他にない。
ある意味では、ブッダは、後々までも弟子に一種の苦行をやらせていたと言える。お椀を持ち、乞食をして回る托鉢(タクハツ)行も、一種の苦行ではある。これは今でも、お坊さんがやっているのをよく見かける。他にも、わざわざ墓場に行って美女の死体を見せたりとか。弟子の多くは、普通の人間だ。「がんばって修行するぞ」とは思っているものの、本当はおいしいものを食べ、美女とたわむれて人生を楽しみたいというのが本音。そういう人には、まず、「人生は楽しくないのだ」ということから教えなきゃいけない(笑)。
もっとも、修行期間中のブッダがやっていた苦行は、それとは趣旨が異なる。これは、「苦」を徹底的に体験すること、それ自体を目的とした苦行だ。ブッダは、これによって解脱することを、目指したのだが、それでは果たせなかった。それは、何が理由だったのだろうか。
それは、「苦行によって欲望を抑えることはできても、欲望をなくすことまではできない」というのが理由だったようだ。例えて言えば、よくカゼをひく人が、そのたびにカゼ薬を飲むような対症療法。カゼをひかないようにするためには、それでは足りない。体質そのものを変えていく、長期的な滋養強壮の取り組みが不可欠だ。結局、「欲望は、元から絶たなきゃダメ」ということなのだろう。
当時、インドの修行界を席巻していた「思考を止める瞑想」と「欲望を抑える苦行」を、2つとも極限まで極めた、ゴータマブッダ釈尊。結局、2つとも、欲望を一時的になくすことや、欲望を抑えることはできても、欲望そのものをなくすまでには至らない。ゴータマは、そういう結論に達した。
この2つによって、意識を高めることはできる。人間としては、最高のレベルまで行ける。だが、人間の域を超えるには、何かが足りない・・・。
ここで釈尊が選んだ道は、瞑想しつつ、自分自身の心、というより、自分という存在そのものを徹底的に観察することだった。単に、思考を止めて精神集中するだけではない。徹底的な、観察の瞑想だ。ここでついに、輪廻思想史上に残る、空前の大発見が得られた。
「輪廻転生の原因は、業にある。業の原因は、欲望にある」
・・・というのが、天才・ヤージュニャヴァルキヤによって確立された、輪廻転生の定式。だが、なんと、さらにその奥があった。つまり、欲望が根本的な原因ではない。その欲望には、さらに原因があるというのだ。
それは、「根本的な生存欲」である。
地球は、サバイバルゲームの世界だ。人間はもちろん、動物や植物も、生き残るために必死。激しい食い合いをしている肉食動物は分かりやすい例だが、平和に見える植物だって、実は厳しい陣取り合戦を続けているのだ。そんな地球環境で、無数の輪廻転生を経てきた人間には、「生き残りたい」という根本的な本能が刷り込まれている。それは、あまりにも意識の深いところにあるため、だれも自覚していない。
食欲や性欲も、「生き残りたい」、「子孫を残したい」・・・という、「根本的な生存欲」が原因となって生じる。
ついに、ゴータマ・ブッダは見抜いた。
「輪廻転生の原因は、業にある。業の原因は、欲望にある。欲望の原因は、根本的な生存欲にある」。
これが新たなる、輪廻転生の定式。輪廻転生における、原因と結果の法則だ。
2千数百年も昔、古代のインドでひっそりと発見された、輪廻の秘密。奇しくも、現代のアメリカを中心とするスピリチュアル界で「輪廻転生からの卒業」がクローズアップされる中、今こそ学ぶべき東洋の知恵と言える。この2つを結び付けられるポジションにいるのは、日本の精神世界ファンしかいない(笑)
そうなると、「では、根本的な生存欲をなくしましょう」ということになるのが、自然な流れだろう。だが、これは、世間の価値観とは真っ向から対立する。というより、人間としての自然な気持ちと、これほど対立する考えは他にない・・・。
(参考文献 : 宮元啓一著「ブッダが考えたこと」)
スピリチュアルの宝庫 →
誤解しないでいただきたいのは、ここで言う「根本的な生存欲」というのは、意識の奥にある潜在的な生存衝動だということです。それが、輪廻転生を引き起こしている原因なのだ・・・という話。
単に、「もう人生に未練はない」とか「生きていくのが嫌になった」というような、表面的な気持ちの問題ではありません。その程度のことじゃ、輪廻は終わらせられないのです(笑)
つまり、ここでいう「根本的な生存欲の克服」というのは、単に「この世で長生きしたいと願わなくなる」というような、よくある通俗的な厭世観ではないということです。
もっと意識の奥にある、当人が自覚できないほど根源的な生存衝動。それこそが、輪廻の原動力。それの発見と克服を目指す。
「輪廻転生を終わらせる」というのが、この話のテーマです。この世で長生きするかどうか、より良い人生を送れるかどうか・・・というのは、ほとんど視野に入っていません。
端的に言って、「生まれ変わりさえしなければ、死ななくてもすむ」というのが、古代インド人の発想です。
つまり、何度も何度も苦しい思いをして死ななければならないのは、輪廻転生のせい。だから、輪廻を終わらせたい。
輪廻転生を、単なるオトギ話としてではなく、本当に真剣に受け止めていた人々ならではの考え方と言えるでしょう。
>自我(エゴ)と生存欲との因果関係と因なるものが何処から来るのかについても説明願います。
自我(エゴ)として存在し続けたいという、本人も自覚できないほど意識の奥にある、潜在的な生存衝動こそが自我(エゴ)の原因です。
それを克服することができれば、自我(エゴ)は終焉し、輪廻は終わります。
輪廻がいつ、どのようにして始まったかについては、釈迦は語っていません。
たとえ、どのような意識改革を実現したとしても、肉体を持って現世で生きている以上、病気になったり、老化したり、死ぬことは避けられません。ほかならぬ釈尊自身、菩提樹下で解脱した後も、老化して、最後は病気になって死にました。
その意味では、「二度と生まれ変わらない」ということこそが、唯一の最終的な解決と言えるでしょう。
ただし、解脱することにより、現世での苦が気にならなくなるので、精神的な負担を大幅に軽くすることはできます。
>仰ってる「潜在的生存衝動」克服できるのですか。無我になる方法はあるのですか。「
「その方法はある」というのが、仏教の根本理念である「四諦」の四番目です。
簡単にいえば、無我の教えを繰り返し十分に学んで自分のものにし、日々の生活と言動を律し、あとは観察と禅定を通じて解脱すれば良いのです。
>「諸法無我」と「輪廻」とは矛盾しませんか。
「自我がないのに、何が輪廻しているのか」というのは、誰もが持つ疑問でしょう。この疑問に答えるのは、誰にとっても難しい。あの壮大な仏教哲学の体系は、「この疑問に答えるために築かれた」と言われるほどなのです。
これを説明するために用いられる例え話は、「薪から薪へと、燃え移る火」というものです。
薪が尽きても、火は燃え移って、燃え続ける。それは、元の火と同じものであるような、別のものであるような。そこに、なんらかの連続性はあるけれども、同一の主体だと言い切れるものではない。
やがて、火は燃え尽きるときが来る。それこそが、解脱です。
>ここで、ゴータマ・ブッダが選んだ道は、瞑想を再開することだったという。とはいっても、例の「ピッタリと思考を止める瞑想」ではない。今度は逆の、「モーレツに思考をめぐらせる瞑想」だ。
ここ、完全に間違いです。
瞑想には「止」瞑想であるサマタ瞑想と、「観」瞑想であるヴィパッサナー瞑想とがあります。
ブッダが悟りを開くにいたった決定的な瞑想はヴィパッサナーです。そしてこれは「猛烈に思考を巡らせる瞑想」などでは全くありません。瞑想はいずれも「思考を止める」点では共通しているし必須の要件です。
ブッダが行った瞑想は、徹底した「純粋観察」瞑想です。六門から入力された各知覚を、脳や思考による「編集」を一切受けない‘ありのまま’の世界、真実の世界、物事が生まれた瞬間に崩壊していく生滅の連続の世界。生が滅の因となり、滅が次なる生の因となる、無限の連鎖の世界の成り立ち。それを観察しうる瞑想がヴィパッサナー瞑想(観瞑想)です。
また、ブッダはやはり苦行を否定しています。托鉢や乞食、死体の傍で肉体の崩壊を観ずる瞑想も、ブッダの言う苦行ではありません。
なぜブッダが苦行を戒めているかというと、過ぎた快楽と同様、神経が高ぶってしまい、物事をありのままに見るために必要なサマーディ(禅定)と、そこから生み出される究極のサティ(念=気付きの心所)が鈍ってしまうからです。
貴殿のブログはかなりいいところまで来ているのですが、非常に大切な所で根本的な誤解があるのが惜しいと思います。
非常に参考になるコメントを、ありがとうございます。
確かに、筆者がその辺りのことをよく知らないのが、この記事の続きを書けない最大の理由であり、次なる探求テーマは「釈迦の瞑想」であることにいま気づきました(笑)。
解脱への実践的な方法論として避けては通れないテーマだと思われるので、この記事の続きとするのにふさわしいかも(笑)
確かに、この記事には誤りが多かったので、かなり大幅に修正しました。
今は、「ヴィパッサナー瞑想」というテーマで続きを書いています。