波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方   「第33回」

2015-11-16 11:03:49 | Weblog
1973年春東京営業所はスタートした。とは言えそんなに華々しいものではなかった。ただ4にtんが集まりそれぞれが自分の仕事を割り当てられ、その勤めを果たすということであった。
田口は顔料という分野のお客周りを中心として歩くことになった。客は多岐に渡り勝者もあるが、インキ、ゴムその他のメーカーとある。全く知らない分野であるが、注文をとり、客の要望を聞き取りそれを本社へ連絡するというものだ。その事務処理は佐久間女史がするのでそれを伝えるだけでよい。朝ちょっと顔を出してお茶を飲むと出かけてしまい、夕方まで帰ってこない。場合によってはそのまま帰宅ということもあり、仕事をして何があったかとか、何をしたとかの報告は一切ない。そんな義務はなかった。まさに自由である。浅野はモーター関係の材料を扱う工場を専門に客回りをした。ずぶのしろつと出何も専門的なことは分からないが、扱う材料だけは分かっていた。そんな訳で客先で在庫であれ次の予定量であれ、品質などを聞いてそのよう棒をまとめて工場へ連絡する。そして客先と工場の連絡をとる。几帳面な彼は事務所へ帰ると必ずその日の内容を記録し、報告もあった。客先での問題点は欽二と話し合い、どのように対処するかも相談があったし、場倍によっては欽二が出向くこともあった。
欽二は本社と連絡をしながらその要点をまとめて報告し自分の客先や仕事先の仕事をこなしていた。岡山が本社とは言え、客先は関東が中心であり関西は少なかった。したがって
東京での仕事は本社穂の影響は大きくひびく。まして浅野と二人で担当したモーターを中心とする客先は業界としても始まったばかりで岡山の会社は業界でも後発だった。したがって客先はあっても口座として取引をしているところは少ない。この客先に氏鞘の製品を売り込みをかけることが主目的だった。
欽二はこの仕事に情熱を燃やした。浅野には既存の取引のあるところを回らせ自分はまだ取引がない客先を開拓することに注目した。
客先としてはそんなに多くない。これらの客先に自社の製品を以下に売り込み買わせるかそしてどうすれば取引がしてもらえるか、この一転に集中した。