波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

    思い付くままに   「ある一日」

2014-06-27 10:34:33 | Weblog
最近友人や知人に会うと「毎日何をしているの」と聞かれる。何もすることがないのに、何をぶらぶらしていると思われているらしい。確かにその通りだが実際ただぶらぶらすることもかなり
つらいものがある。他人は自分の事は棚に上げておいて、人の事が気になる」のが習性だとは思うのだが、高齢者になれば、仕事をしなくても年金で暮らすことが出来ると何もしなくても良くなることは事実でもある。極端に言えば毎日が「日曜日」と言われても仕方がない。
自分も人はどう過ごしているのだろうと気にならないこともないが、聞いたところでそれが参考になるとは思わない。ましてあだ肉体的にも精神的にもこの年齢になると一葉とは言えないし、一人一人の状態が大きく変わっていることが多い。一番多いのは身体を壊していることだろう。
そうなると参考にもならないし、各人の環境も同じとは言えないので、それぞれが工夫することになるのだろう。仕事をしたいと言っても60代までで70台ともなると内職もないほどである。そこで自分の事となるのだが、確かに私自身も当初は暗中模索をしていた時もあった。
「何をしても良い」と言われることは若い時なら大喜びをしたもので、肉体的にも精神的にも経済的にも自信も余裕もあった。しかし現在「何をしても良い」と言われても「できる事は限られている」し、できる事なら「何もしたくない」と言う心境でもある。それほどに肉体的にも精神的も疲弊しているのである。
ただ生まれた時から、キリスト者の家に生まれたこともあって「聖書」とは切り離せない人生を送ってきた。それは色々と変遷があったが続いている。そして現在は生活の基本であり、中心でもある。従って、生活の基盤がここにある。いあ具体的に何をどうのという事は省くがそれは
生活を組み立てる上に大きな影響を与えていることは事実である。
そして一週間のうちに出会い「交わりを持つ」人との時間であろう。かぞくであり、りんじんであり、その他の様々な人との交わりはかけがいのない時間であり、貴重である。
そして自分自身を活性化する時間を持つことであろうか、体は動かなくてもできる範囲で「与えられ」「生かされている」身を十分に活用するに、どうするか、また大切に保つにはどうするかは務めであろうと思われる。
考えられる範囲で、出来る範囲でこの目的のために時間を無駄にしないようにする。
ただ、「頭休めの」何も考えないでただ「楽しむ」ための時間としてTVの時間も利用することになる。声で十分満足できる」時折親しい人とおいしい食事を頂く時間も滅多にないだけにその
ありがたさと満足が得られるようになった事、価値が分かってきたことも嬉しいことである。
日々新ただあり、一日一生の日々でもあるのだ。