波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思い付くままに  「修養会」

2014-06-19 10:39:28 | Weblog
ある会合で修養会が行われるという事を聞いて出席してみようと思った。それはテーマが
「死と永生」とあったのが動機である。若い時から今まで「死」という事を聞いても自分の事として考えたことがなくその場面にあっても、それは他人事であって自分には関係ないような気がしていたからである。然しこの年齢になり(80歳)家族であった母、父、妻、兄、弟と亡くし
気が付くと私一人が残されていた。生まれた時から共に生きて育った家族がもはやいなくて、私一人である。そして私の番もやがて否もう来ているのである。こうなるとこの問題は避けて通るわけにはいかないのである。
私は私なりにこの問題とどう向かい合いどう迎えるかという事を考えざるを得ない時を迎えているのである。人間の一生は「生老病死」の四文字であらわされると良く言われる、また「四苦八苦」だと言う人もいる。確かに一言でいえば多かれ少なかれ結果的にそんなものかもしれない。
特に「病」については人それぞれに差が出てくるであろうし、又「死」についても年齢をはじめとして様々な状態に表れる。しかしだからと言ってこの「枠」から逃れることが出来るわけではない。その中にあって自分は残された時間のこれからをどう生きるか、どう考えていけばよいのか、それはこれからの時間を左右する大きな要素となる。
その修養会ではその中心は「神」にあり、神を信じて生きることであると教えられた。人が死を恐れたり、穢れたものとしたり苦しみを伴うものとして迷い悩むことは「自我」にある。
全てを神にゆだね、あずける心を持ちうることが出来た時、そこに「平安」が生まれる。人は
これらの事について様々に運命づける。特に強気な人は「私は死を別に恐れてはいないし、何とも思っていないと強調する。つまり自分はそんなに弱い人間ではないとの姿勢を示す人もいる。
しかし、実際にはどうだろうか。その場面に際した時、果たしてそんなに冷静でいられるだろうかとも思う。肉体が滅んでいく過程は人によってさまざまであったとしても、そこには不安が付きまとうものであろうと思う。そしてそれが正直な裸の姿でもあろうかと思う。
その時こそ神によって与えられた生命を神のもとへ還るとして素直にそのままの気持ちですべてをゆだねる事だり、それを信じきることだろうと思う。
残された時間はあるようで少ないのである。(誰しも)だとすればこれからの時間は無駄には出来ないし大事な時間となる。そしてその日を迎えるために相応しい日々を過ごさなくてはならないと思うし、少しでも積み上げていきたいとも思うのだ。