波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

パンドラ事務所  第三話  その4

2013-09-19 10:59:18 | Weblog
私も嘗ては一緒に机を並べて仕事をした仲である。口下手で学歴もなかったが、人間性では誰にも負けないものがあった。朴訥さの中に真面目さがあり、その熱心な集中力は誰も負けなかった。自宅が館林にあって通勤には2時間以上かかっていた(早朝から深夜まで)ただ一つの楽しみは帰宅時の列車で飲むワンカップの酒であり、飲んだ後の転寝で見る夢は可愛い娘たちと愛する妻の姿であったろう。それはカラオケで歌う彼の「関白宣言」の詩に込められていた。私は彼の歌を聞くたびにそのこめられたものを感じていた。
いつもは静かな酒であり、良い酒なのだが忘れられない酒にまつわるエピソードがある。
一つはゴルフ場での出来事で昼食の後の午後プレーまでの待ち時間が長く、彼はその時間に相当の酒を飲んでしまっていた。いざ午後のプレーが始まると彼はドライバーを取り出し最初から最後のグリーンまでそのドライバー一本でプレーを続けてしまった。キャデーが何度か注意していたが、全く聞こえないかのようにプレーして終わったのが、あの光景は忘れられない。そしてもう一度はある年の正月早々のあいさつ回りの出来事である。
当時はまだ景気が良かったこともあり、得意先回りに行くと玄関のテーブルに祝い酒が置いてあり、挨拶が終わるとすすめられたものである。嫌いでない彼は行く先々でその酒を
一杯づつ飲んでいたのだが、お昼頃行った台湾との貿易をしている華僑の社長から中国製の強い酒(白酒60度)を紙コップ一杯すすめられた。さすがに彼も遠慮していたが、頑として飲めとすすめる相手に負けて、一気飲みをした。それからあいさつ回りは続いて
最終の会社へ向かった。時間も夕方近く、その会社では早じまいをして乾杯をしている最中であった。そこでも出された酒を飲んだのは良かったのだが、その後彼の態度は豹変したのである。飲み終わった酒瓶を持ったまま立ち上がりそのまま動かず、帰ろうとしない。何人かで何とか車に乗せて仲間の東京のアパートまで連れて帰り、そこで寝かそうとしたのだが、頑として車から降りない。(どうやら自分の家でないことを無意識に悟っているらしい)仕方がないのでそのまま東京から館林まで車で飛ばして、家まで送り届けたのだが、その時すでに靴は片方ゆくへ不明、スーツはどこで汚したのか、泥だらけと散々だったが、無事に返すことが出来た。
青山は彼の奥さんと話しながらそんな彼のことを思い出していた。そんな彼の優しい姿をもう見ることはない。
「わかりました。私も定年後会社には顔を出していないので、その当時の人がいるかどうかわかりませんし、話を知っている人もいるかどうかわかりません。でも一度訪ねて聞いてみましょう」そう言って彼女と別れた。