波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに

2012-10-09 10:15:01 | Weblog
定年を過ぎて一人で生活するようになって、10年以上が過ぎてしまった。最近はあまり聞かれなくなったが、定年当初は
人に会うと良く「毎日何をしておられますか」と聞かれる事が多かった。「何をしていようと私の勝手で、とやかく言われることではないでしょう。」と反発を感じながらどう返事をすれば良いかと、無意識に自らを繕うように本当のことを(何もしていないと)言う事が気恥ずかしく適当にごまかしていたものだった。
しかし、毎日を過ごしているうちに年齢とともに自分自身が外見だけでなく、考え方も違ってきた事は間違いないようだ。
一言で言えば世の中の事が、少し見えてきたとでも言うのか、自分自身のことが分かってきたと言う感じがするのだ。
だからと言って良いことが出来るようになったとか、利口になったとか、穏やかになったとも思えない。今でも他人のことが
気になったり、うっかりすると調子に乗って人の悪口を言ったり、余計な事を言う事は変わっていないのだ。
唯、自分ができない事や分相応な建前を少し弁えるようになったかなと思う事と諦める事を知ってきたかなと思っている。
それを単に「老化」だと言われてしまえばそれまでだが、それだけではない違いを感じている。
残り少なくなった人生を「何をすべきか」と問いかけつつ生きる事はいつも頭にあるのだが、そんな時に次のような言葉に
出会った。「畏れおののきながら自分の救いを力を尽くして達成しなさい。」
私たちは毎日の生活において自分で自覚して判断し何をするかを選び、自分の行為を決めて行動しているのだが、それが
正しいと言う保証は何もないのである。これで良いのだろうかと迷いつつ行動して、この事が人に対しても神に対しても
どのようにすれば良かったのか、誰も分からないままに過ごしているのだと思う。
では「自分の救いに力を尽くせ」とは何を意味しているのだろうか、どうする事なのだろうかと考えるとき、私たちを
使っているのが神だと考えられれば、もし自分に不都合なことや望んでいない事があったとしても、それは神の計画のうちにあることだと分かるようになるのではないかと考える事が出来る。
こう考えられるようになると、したい事、しなければいけない事が自然に浮かんでくる。人任せにして言われた事をし、
誰かに任せるのではなく、生かされている一人として誰かに聞きながらするのではなく、自分の責任において日々を行う事が
出来るのだと考えている。