波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     白百合を愛した男    第77回

2011-03-18 10:09:08 | Weblog
シンガポールでのオープンセレモニーは大きなニュースとして報じられていた。百人足らずの小さい工場ではあるが、日本の企業が進出して新しい原料を作ると言うことは狭く、小さい国では珍しく、ニュースになるらしい。(確かに行って見て分ることだが、現地ではデパートのオープンは最大のイベントになっている。それは暑い赤道直下の国だけに
其処へ行けば涼めることと、新しい製品、珍ししい物品をみて、楽しめるからであり、其処は唯一の観光場所となり、エンターテイメントを経験することが出来るからでもある。)
当日は新聞社のマスコミを始め、TVまで入って大賑わいとなる。独特の祝の舞などが入り、日本では到底想像できない。テープカットは日本からの社長を始め、親会社のえらいさんがずらりと並び、乾杯のシャンペンが配られる。
操業はこうしてスタートすることが出来たが、開始のときに必要とされていたスーパーバイザーと称する現地採用の幹部はこの時既に大半が辞めて、消えていた。日本での現地指導を三ヶ月行い、ある程度の技術、そして工程管理、機器のオペレートなどを覚えさせ
操業管理者として二年間の勤務契約を交わしていながらである。つまり彼らはこうした
技術を身につけると、すばやく次の新しい職場をより良い条件で採用してくれるところ、それも自分の都合に合わせて探すからである。従って、日本的な契約モラルなどはあってないようなものであった。パソコンのオペレーター女性など一ヶ月も勤めれば、次の日にはいないのは当たり前であって、翌月行くと、すっかり顔ぶれが変わっており、おなじみに担って挨拶を交わすことが出来るのは「掃除のおばさん」だけであった。
しかし、彼らには悪びれたところは全く無く、それらは当たり前であり、生きていくために手段であり、ある意味常識なのかもしれない。文化と言うか、お国柄と言うか、むしろ日本が逆に特別なのかもしれないとつくづく勉強させられたものである。
さて、新工場の視察旅行は日本から相次いで入れ替わり、立ち代り続いた。
そのたびに、お供がそのお世話係として付いてゆくわけだが、これがなかなかの仕事であった。ホテルは五つ星が指定され(もっぱら日航ホテルが使用されていたが)到着から、帰国までの朝から夜までの日程と、随行は気が休まることが無い。特に食事と帰国時のおみやげの準備は大変な神経を使わなければならなかった。
買い物、これは元来女性の仕事であり、男性は普段この種のことは経験が無いのが常識だと思っていたが、あにはからんや?であった。

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