波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

        思いつくままに

2008-10-08 10:09:42 | Weblog
最近の新聞には事件として親と子供の関係から発生したものがあった。
何気なく読み過ごしていたが、不図、自分も一人の親であることを考えつつ、自分は親として客観的に親としてふさわしい親であろうかと思ったのである。
「この年になって、どう考えてみてもすべては遅いよ」と言われてしまえばそれまでのことで、今更のことではあるが、「いや、せめて最後ぐらい少しは親らしい親として終わりたい」と言う思いもある。
考えてみると、自分で親として本当の意味で自覚を持って接してきたことがあったのだろうか。反省してみると、単に親として子供をペットのように可愛がったり、言うことを聞かせて思い通りにさせたりしてきただけではなかったか。
子供が成長した年齢になったときも意識は同じで人格と人格をもった人間同士の交わりではなく一方的な交わりの中に自己を充足させ、自己満足をさせていただけで
それは教育でも、躾でもなかったような気がしている。
小さい時はいざ知らず、大人になった年齢から(個人差はあると思われるが)
親は子供との関係を明確に一線を引く覚悟をしなければならないと思う。
それは人間として、しかも親とどんなに似ていても別の人格として関係を持つことを覚悟することでもある。それが正しい意味での「子離れ」と言うことかもしれない。極端に言い換えれば、それは子供は「他人同然」との感覚を持ったほうが良いとさえ思えるものかもしれない。
それくらい割り切った考えが出来ないと具体的に、又、現実的に問題が置きかねないのである。
何故なら、どうしても小さい時からの習慣で子供は親の言うことを聞くものであり、親が子供をすべての面で面倒を見ていると言う自己中心的な親のわがままが
反映してしまうからではないかと思うのである。
当然ながら子供のほうにも自己中心的な考えが成長しているわけで、その両方がぶつかるのであるから、問題は必ず生じるし、結果は力関係で良い結果を生むことはまず無い。親が子供を「子離れ」した他人的な意識を持てば、少なくても雰囲気が変わり、言葉も態度もやさしく、そこには命令も、強制も生まれない。
そして子供にも変化が出てくるはずである。
それは決して、親の責任放棄ではない。むしろ逆で暖かく見守る事によって、より大きな責任を背負うことになる。ここが難しいところであろうか。
このレベルをクリヤーする時、新たな関係が生まれてくると思うのだが、言いえて事なり難しであろうかl。

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