波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡    「続・心の旅」

2018-04-10 09:32:56 | Weblog
人は生まれながらに好き、嫌いの感情をもって生まれているようだ。それは食べ物だけではなく、人間関係においてもある。「あの人は好ましい人だ」「あの人は私のタイプだわ」それは人格とか、人間性は別として理屈抜きに感じるものらしい。
そしてそれは理性でもどうにもならないことがわかる。聖書は「あなたの敵を愛しなさい」と教えているが、人間にとってこれは言葉通りではむつかしい問題である。しかしこの言葉を額面通りでなく解釈すればこんな考え方はできないだろうか。
「好きでないタイプの人でもまた何かのきっかけで増悪があったとしても行動において相手が好きである場合と同じ行動ができないか」と解釈することができないかと考えるのである。つまり心理の実態と表現は乖離していても許されるという解釈である。
人間はしょせん不完全なものである。それはアダムとエバの世界から受け継がれていると考えざるを得ない。どんなに愛していても長い人生の中ではそれが憎しみに変わることは何の不思議でもない。そしてそれは愛が強いほど強い憎しみとなることも教えられている。
心の中はどうであろうと行動と表現だけは相手を許し、相手のためを思い相手のためを思い優しく穏やかにふるまうことができればこの世の人生においては許されるのではないかと思われる。
言い換えれば人間は心の中にには増悪や憎しみを持ちながらもそれを表情や行動に出さないで人工的な(?)微笑や穏やかさを保った状態ができれば、神の前に許される範囲なのではないかと思われる。しかしこのことは本質的には「嘘」である。大人になることはある程度の嘘を身につけなければ穏やかな人生を生きることができなような気がする。またそれが危機回避のための知恵ともいえよう。
その知恵は学校では指導しきれないだろう。人はそれぞれ個性があり、一人ひとり教え方身に着け方が違う。
言い換えればその人に会った哲学が必要である。だからそれぞれに学び、身に着けていくしかないのである。
そのためにはどうするか、それはそれぞれが考えることではあるが、一言でいえば「読書」にその答えがあるような気がする。
また身の回りの賢いおじさんやおばさんの何気ない言動に隠されているかもしれない。
普段からそういう習慣をつけていると自然にそれらのことを身に着けることもできる。人生とは不思議であり、またいつも学びの時なのである。

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