波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思い付くままに    「父と子」 その3

2014-04-01 09:36:35 | Weblog
自分の思いが強くなり、自分望みどおりに事が出来なくなると人は他人の事は忘れ自分の事を中心に無意識に行動することは本能的であり、ある意味自然かもしれない。
「人の事はどうでもいい、何と思われようと関係ない、」と自分の考えを主張し徹底する。そこには妥協も配慮もまして自分を犠牲にしてまでと言う考えは微塵もない。そしてその度合いは
父を含む親の年齢が若いほど強く、そのまま子供への圧力になりかねない。その結果は様々であるが、いずれも不幸につながることが多いだろう。
ある家では一階と二階で親子が別所帯で暮らしている。二階の若夫婦は一階に住む親とは生活が別であるのはいいとしても顔を見合わせてもほとんど口も利かない生活だとのこと。だからそこにはお互いの協力はなく、無邪気な孫だけがじいちゃん、ばあちゃんに親が働きに行っている間甘えている。こんな過程はざらにあるようだ。
又一階には90歳を過ぎた母親が一人で住み、若夫婦が二階に住んでいながらお昼には「おむすび一つとおしんこ一切れ」で何の世話もしない嫁がいるだけで具合が悪くなれば救急車を呼んで病院に預けるだけだとしているところもあると聞く。
又、50歳を過ぎた息子が一人の母親の世話でマザコン同様に嫁も取らず仕事をしている。
母親はまるで息子の主婦のようにあれこれと世話を焼き、それを生きがいにして毎日を暮しているという話もある。
こうしてみると目に見えない歪な家庭がいかに多いことかを垣間見ることが出来る。いろいろ事情があり、その状態を悪いとは言えないし、正常ではないとも言えないかもしれない。
人生は様々であり、そのものが何らかの「罪との戦い」のなかにあるとはキリスト教の教えにあるが、自らを省みるとき、様々な負い目を負っていることに気が付く。
それは決して非難されるものではないし、それぞれそれなりに幸せに暮らしているのだろうとも思う。・幸せの形態が時代と共に変化しているようだ。
そんな事を考えている内に本当の幸せな家庭とはどんなものだろうかと改めて考えさせられるのだが、何事も心を平安に過ごせる環境ではないかと思う。
しかしどうしても何らかの不安を抱えて過ごしていることも事実である。
人生は複雑であり、様々な形態でそれぞれが生きるしかないのかもしれない。