波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思い付くままに   「幼子のように」

2014-04-22 09:28:18 | Weblog
「子供は無邪気でいいね。」と学校へ上がる前までの子供たちを見ていると本当に嫌な事を忘れ、思わず声をかけたくなるほど心が安らのを覚えます。
人間は成長するとともに「知識を持ち始め、それは年齢とともに増えるのです」しかしそれだけでは済まないのです。「知識」を持つだけなら良いのですが、それと同時に「憂い」というか、
「不安」と言うか余計な感情が生まれてくるのです。言い換えれば知識を持つがゆえに
「考えなくても良い余計なことも考えてしまう」ことなのです。しかし知識を持つという事は
考えることは必要ですし、悪いこととは決して言えません。唯困ることはその考えがいつも正しいとは限らないことと又、完全とは言えないことが多く、その為に自分勝手な知識に従って行動することが多いからなのです。
そしてもう一つ言えば、それは一般的には楽観的で前向きな考えで行動するなら良いのですが、殆どの人が問題に直面した時に悲観的になり、深刻に考えることが多いのです。
そして問題を前にして大抵の場合、この二つの思いの中で自分の中で苦しむことになるのです。そして結果的にはうまくいきそうなことでも、悪く考えておけばそれ以上のことはないだろうと悪いほうにしか考えない癖のようなものがついてしまうのです。
犯罪者の例を見るとこれに似ている現象がみられるとあって一度使った手口で何回もつかまってしまうケースがあるとTVでも紹介されています。
然し、大人になり、人生を歩んでいくうえで物事を考え行動するときにこの事は避けて通ることは出来ません。人間はどんなに知識があり、権力、そして財力があったとしても全てが自分の思うようにいかないことは、例えば「寿命」一つを考えても分かることです。
と言って今更幼児に還ることもできる事ではありません。そして更にこの思いは年齢を重ねるごとに強く深く大きくなることで肉体的にも精神的にも影響が大きくなることも事実です。
信仰者はそんな時「神を信じる」そして「神にゆだねる」と祈るのです。
人間はどこまで行ったとしても人間としての限界があり、人間でしかないのです。自分の考え
自分の力、自分の愛の全てを駆使したとしても不可能でしょう。そして平安は得られないでしょう。孫や保育園に通う幼子を見るたびに私は自分を少しでも小さいものにして、何も知らなかった幼子のような心を取り戻したいと謙虚な心を持ちたいと願うばかりです。