く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<チャノキ(茶の木)> ツバキの仲間、純白の5弁花を下向きに

2013年12月03日 | 花の四季

【茶園のほか垣根にも、花は初冬の季語】

 ツバキ科の常緑樹で、単に「チャ(茶)」とも呼ばれる。原産地は中国南部~インドシナ半島とインド・アッサム地方。中国種は比較的寒さに強く日本や中国で栽培されている。茶畑では1m程度に刈り込まれることが多いが、自然木では高さが3~4mにもなる。大気汚染に強いため生垣や庭木として植えられることも多い。一方、暑さに強いアッサム種は大きくなると10mを超えるという。

 日本には奈良時代、中国から薬用として渡来したといわれる。ただ広く栽培され喫茶の風習が広まるのは鎌倉時代に入ってから。12世紀末に僧栄西が留学先の中国から種子を持ち帰ったことに始まる。栄西は臨済宗の開祖で、茶の種類や効用、製茶法などをまとめた「喫茶養生記」という著書も残している。

 花期は10~12月。晩秋から初冬にかけツバキに似た直径3cmほどの白い5弁花を下向きに付ける。ふっくらとした小花の中央から突き出す黄色い無数の雄しべが印象的。チャには緑色の花柄(かへい=花を支える茎)がある点がツバキと異なる。園芸品種には花が紅色のものや葉に斑が入るものなどもある。5月上旬の八十八夜の頃に摘むのが一番茶(新茶)。その後、摘む順番で二番茶、三番茶に。製茶法の違いによって緑茶、中国茶(ウーロン茶)、紅茶になる。

 佐賀県嬉野市の「嬉野の大チャノキ」は国の天然記念物(1926年指定)で樹齢300年を超える。「嬉野茶」のシンボルになっており、チャノキは「市の木」にも選ばれている。市や町の木になっているところは他にもある。「狭山茶」で有名な埼玉県狭山市や「宇治茶」の京都府宇治田原町など。埼玉県入間市や所沢市、茨城県坂東市、東京都武蔵村山市、京都府和束町、長野県南信濃村などでは市や町・村の花になっている。

 「茶の花」は初冬の季語。「茶の花に隠れんぼする雀かな」(一茶)、「茶の花に人里ちかき山路かな」(芭蕉)、「茶の花に暖かき日のしまひかな」(虚子)。 

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<生駒聖天厄除大根炊き> 生駒の初冬の風物詩、ふろふき大根を無料接待

2013年12月02日 | 祭り

【大釜で炊き上げること2時間半、使った大根1800本】

 奈良県生駒市の宝山寺で1日、恒例の「生駒聖天厄除大根炊き」が行われ、多くの参拝客でにぎわった。大根は体の毒を消し去り、食べると中風にならないともいわれる。宝山寺では大きな釜で輪切りにした1800本分の大根を炊き上げ、この日午前零時から午後1時頃まで参拝者に無料で振る舞った。

 

 大根は大釜の中で1時間炊いた後、大きなダシ袋を入れ清酒を注いだ隣の大釜でさらに1時間半炊くと出来上がり。これに秘伝の甘い「宝山寺みそ」をかけて食べる。接待場所のテント前には長い行列が途切れることなく続き、参拝客は熱々のふろふき大根を「フーフー」言いながら口にしていた。「お代わり、いいですか」とトレーを差し出す坊やもいた。テントのそばでは持ち帰り用として袋入り大根が300円、「宝山寺みそ」が525円で売られていた。

 

 1人前は大根2切れ。では1800本で何人分? 関係者に聞いても分からないということだったが、1本20切れとすると10人分。ということは単純計算で1万8000人分に。昨年までは〝売れ残る〟年もあったそうだが、この日は日曜日ということもあって多くの参拝客が詰め掛け、煮炊き担当者も「今年は完売しそうだな」と話していた。境内の一角には今月16日、大鳥居に吊り上げられる巨大な注連縄(しめなわ)も展示されていた。

  

 この大根炊きは聖天様(歓喜天)のお下がりの大根を食べて、1年の毒を除き新年を迎えてもらおうと宝山寺青年会が始めた。もともとは千本釈迦堂(大報恩寺)など京都の寺院の冬の行事として知られる。その京都では「大根焚き」と書くところが多い。千本釈迦堂はお釈迦様が悟りを開いた日(12月8日)に因み、毎年12月7~8日に行う。通称「大根焚寺」とも呼ばれる清滝の了徳寺は同9~10日。大原の三千院は毎年2月の初午(はつうま)に合わせて行っており、来年は2月8~11日に開催の予定。

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<帝塚山大学付属博物館> 特別展「瓦の来た道」第2弾「朝鮮瓦の歴史」

2013年12月01日 | 考古・歴史

【清水館長「瓦の普及は中国からの仏教伝来と連動」】 

 国内有数の古代瓦の収集・研究拠点、帝塚山大学付属博物館(奈良市)で「朝鮮瓦の歴史」展(21日まで)が開かれている。今春開いた「中国瓦の歴史」に続く「瓦の来た道シリーズ」の第2弾。30日にはこれに合わせて公開講座「古代朝鮮の造瓦と仏教」が開かれた。講師の清水昭博館長(帝塚山大学考古学研究所所長)は「古代朝鮮での造瓦技術の導入と普及は中国からの仏教の伝来・受容と連動していた」などと話した。

   

 朝鮮半島で瓦が最初に使われたのは中国・前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして漢四郡を設置した時期(紀元前108年頃)。その後、高句麗・百済・新羅が覇権を競った三国時代になって本格的に瓦が普及していく。高句麗、百済は4世紀、新羅はやや遅れて5世紀に入って瓦造りが始まった。

  

 瓦のデザインは仏教の象徴である蓮華文を基調としながら、各国が個性的な瓦を生み出した。上の写真㊧は高句麗の蓮蕾文軒丸瓦。赤褐色の色合いは都が平壌にあった時期(427~668年)の特徴という。写真㊥は百済の瓦で、花弁の先端が隆起しているのが特徴。日本には588年、百済から4人の瓦博士が来日して製作技術を伝えたが、日本最古の本格的寺院・飛鳥寺にもほぼ同じような文様の軒丸瓦が使われた。

 新羅に造瓦技術が入ってきたのは6世紀前半で、6世紀半ばにかけて百済と中国・南朝(梁)、高句麗の3つの系統の文様が登場した。上の写真㊨の蓮華文軒丸瓦は花弁中央の線が突出しているのが特徴。こうした文様は中国・南朝の瓦に多く、その影響を受けて作られたとみられる。527年に創建された新羅最初の本格的な仏教寺院・興輪寺跡からも同様のデザインの瓦が出土している。

   

 その後、新羅は百済、高句麗を滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一する。統一新羅時代には三国時代のシンプルな文様とは異なり、上の写真㊧のように花文を二重に巡らせる重弁形式など精緻で華麗な瓦が造られた。この時代になると軒平瓦の使用も一般的になり、唐草や麒麟、龍など多様な文様が使われた。高麗時代に入ると、初期には高句麗的な文様の瓦(写真㊥)が造られるが、後期には中国・元の影響を受けて梵字文が流行した(写真㊨)。

 1392年に高麗を滅ぼして建国された朝鮮は現在のソウルに都を置き1910年まで続く。当時の瓦は今もソウルにある景福宮や昌慶宮などの宮殿建築に見ることができる。朝鮮時代の瓦は機能性を重視した分、美観性は弱まる傾向にあるという。同博物館では「瓦の来た道シリーズ」の第3弾として「日本瓦の歴史」展の開催も計画している。

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