く~にゃん雑記帳

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<古事記・日本書紀とやましろ> 南山城の地名の起源にまつわる伝承、古事記に多く記述!

2012年11月16日 | 考古・歴史

【波布理曽能→祝園、懸り木→相楽、堕国→乙訓】

 京都府立山城郷土資料館(木津川市)で開館30周年と古事記編纂(へんさん)1300年を記念した特別展「古事記・日本書紀とやましろ」(12月9日まで)が開かれている。南山城は崇神天皇の時代のタケハニヤスヒコの反乱など、記紀に様々な出来事の舞台として登場、地名の起源についての伝承も多く記述されている。同展では南北朝時代に書写された重要文化財「日本書紀・神代紀下巻」(向日市の向日神社所蔵)などの記紀や、椿井大塚山古墳、久津川車塚古墳などから発掘された、記紀が描く時代の遺物などが展示されている。

 向日神社所蔵の重文「日本書紀」神代紀下巻

 反乱を起こしたタケハニヤスヒコは平定に向かったヒコクニブクに木津川を挟んだ戦いで討ち取られる。タケハニヤスヒコの兵士たちが斬り捨てられた場所「波布理曽能(はふりその)」が今の精華町の「祝園(ほうその)」の起源といわれる。「波布理曽能」は死体が「はふれる(あふれる)」からの変化したものともいう。

 斬首されたタケハニヤスヒコの首が飛んだその祝園の祝園神社と、胴体が残った山城町平尾の湧出宮では、霊を慰めるために始まったという居籠祭(いごもりまつり)が今も行われている。「松明の儀」では大松明が燃やされるが、その松明はタケハニヤスヒコの胴体をかたどったものとも。南山城を代表する古墳、椿井大塚山古墳の被葬者はタケハニヤスヒコとも、ヒコクニブクともいわれている。

   

 椿井大塚山古墳は卑弥呼が中国の皇帝から下賜された銅鏡ともいわれる30枚を超える三角縁神獣鏡の発見で有名。今回の特別展の資料調査の過程で、思わぬ発見もあった。館蔵の三角縁神獣鏡の破片(写真右下)がCG(コンピューターグラフィックス)検査などの結果、同古墳からの出土鏡(写真上)の一部(修復部分)であることがほぼ確実になったのだ。

 古事記の「丹波の四女王」によると、垂仁天皇の妃として丹波のミチノウシノミコの娘4人が召される。姉2人は妃とされたが、下の2人は「姿醜き」により帰されることに。2人のうちマトノヒメはそれを恥じ、帰路の途中、山城国で縊死しようとした。だが死に切れず深い淵に落ちて死ぬ。最初に縊死しようとした場所「懸(さが)り木」が今の「相楽」の地名に、深い淵があった「堕国(おちくに)」が今の「乙訓」」の地名の起源になったといわれる。

 南山城の郷土史研究団体には記紀にちなんだ会誌名をつけたところも多い。精華町の「自然と歴史を学ぶ会」の会誌は「波布理曽能」、京田辺市郷土史会は「筒城(つづき)」。筒城は継体天皇の筒城宮があったとされる場所。記紀には仁徳天皇の皇后の磐之媛命が留守中、天皇が八田皇女を宮中に入れたことに嫉妬し、熊野から難波宮に戻らず、木津川を遡って筒城に入ったことも記されている。

 それにしても地名の起源になっている山城の伝承には「波布理曽能」にしろ「懸り木」「堕国」にしろ、不吉な死などを連想させるものが多い。同資料館の森島康雄さんは「山城にはいい伝承が少ない。そのため山城は大和から嫌われていたのではないかと指摘する学者もいます」と話していた。


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