く~にゃん雑記帳

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<平城宮第一次大極殿院> 巨大な柱をくり抜いて、排水用の木樋にリサイクル!

2012年11月22日 | 考古・歴史

【奈文研60周年を記念し、平城宮跡資料館で特別展】

 奈良文化財研究所の創立60周年を記念した特別展「地下の正倉院 平城宮第一次大極殿院のすべて」(12月2日まで)が、奈良市の平城宮跡資料館で開かれている。これまでの発掘調査で第一次大極殿院地区から出土した木簡や瓦、土器類などを展示、2010年の第一次大極殿復元に至る発掘の成果を凝縮して示す。出土品の中でひときわ目を引くのが、会場入り口に飾られた直径73cmもある大きな「柱根」(写真㊧)。巨大な木をくり抜いて排水溝に下水管として埋設されていた「木樋」(写真㊨)にも注目が集まる。

 

 大極殿は元日朝賀や外国使節の謁見など重要な国家儀式の際に天皇が出御する場所。奈良時代前半の平城宮にはこの大極殿を中心とする壮麗な第一次大極殿院があった。築地回廊で囲まれ、広さは甲子園球場のほぼ1.5倍。だが740年の恭仁京遷都に伴って大極殿と回廊の一部は恭仁京に移築される。745年、再び平城京に戻ると新しい大極殿院が第一次の東隣に設けられ、元の場所には「西宮」と呼ばれる宮殿が造られた。

 第一次大極殿院地区の発掘調査は1959年以来47回にわたる。会場入り口の「柱根」は南門の脇にあった楼閣建物「東楼」から出土した。樹種はコウヤマキで、平城京でこれまでに見つかった建築部材としては最大。大極殿など他の建物が礎石建ちの中、東西の楼閣建物は内側の柱が礎石建ち、外側が柱を地面に埋める掘っ立て柱という特殊な構造だった。この「柱根」は外側の掘っ立て柱の根元にあった。

 大極殿院は北側の大極殿から南側に向かって緩やかに傾斜、南北の高低差は5mほどあった。難題は排水で、頻繁に排水工事が行われたという。排水溝には下水管代わりに大きな木をくり抜いた「木樋」が設置された。展示中のものは長さが7.4mもある。樹種は柱根と同じコウヤマキ。第一次大極殿院の建物は藤原宮から移築されたものが多いが、この木樋も藤原宮の大垣の掘っ立て柱を転用したものと推測されている。

 木簡からも大極殿院造営の過程や役人の仕事の内容など、さまざまな手掛かりを得ることができた。年月が記された一片の木簡からは710年の遷都時に大極殿院は未完成だったという予想外の事実が明らかになった。大極殿の使用が記録上最初に確認されるのは5年後の715年の元日朝賀という。

  

 出土した木簡は荷札として使われたものが多いが、ユニークなものも。報告書の下書きのような木簡の片隅に「常食菜甚悪(じょうしょくのな はなはだあし)」と記されたもの(写真㊧)もあった。「給食のおかずがまずい」というわけだ。「此所不得小便」(ここは小便禁止)と書かれた木簡(写真㊥)も。これらの木簡は楼閣の掘っ立て柱の抜き取り穴から出土した。

 木簡のほかにもさまざまな木製品が約2500点出土した。箸・杓子・角鉢などの食膳具、桧扇、人形(ひとがた)や鳥形、斎串(いぐし)などの祭祀具、糸紡ぎ用とみられる有孔小円板、実際の建物寸法の10分の1で作られた建築部材の雛形……。四つ葉のクローバー状に人名や呪句を記した木簡(写真㊨)も見つかった。病気平癒か疫病除け祈願のまじない札とみられる。

 奈文研ではこの特別展と同時に、飛鳥資料館(明日香村)でも創立60周年記念展「花開く都城文化」(12月2日まで)を開催中。当初は日中韓3カ国の研究機関で共同開催の予定だった。ところが中国から借りるはずだった文化財の借用が中国当局の意向で困難に。そのため開幕がずれ込み(当初予定の10月19日が11月1日に)、日韓2カ国展としての開催を余儀なくされた。尖閣諸島の国有化の影響だろう。それにしても、なんと度量の小さいことか。人口は日本の10倍、国土面積は25倍、GNP(国民総生産)は日本を抜いて今や世界第2位。図体ばかり大きくなって……。

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