く~にゃん雑記帳

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<大和郡山市の石造美術> 古代中国の〝碑制〟に基づいた本多忠常公の墓碑

2012年11月12日 | 美術

【亀の背中の上にそびえ立つ石碑、上部には2匹の龍】

 奈良県大和郡山市の薬園(やくおん)八幡神社参集殿で11日、「大和郡山市の石造美術」をテーマにした歴史講演会があった。大和郡山市まちづくり会議(砂川正興代表)の主催で、講師は同市文化財審議会の長田光男会長(写真)。奈良県内の石造美術としては古くは明日香村の猿石、亀石や飛鳥大仏などがあるが、郡山市内で石造美術と呼べるものが残っているのは鎌倉時代中期以降のもの。長田氏はその中でも注目すべきものとして歌ケ崎御廟の本多忠常公の墓碑、矢田寺の十三仏、額安寺の宝篋(ほうきょう)印塔、薬園八幡神社の石燈籠2基などを挙げる。

   

 大和郡山藩主・本多忠常公の墓碑(下の写真)は養子忠直公が1709年に建立した。菩提寺の発志禅院のそばにある小高い歌ケ崎丘陵に立つ。墓碑は古代中国の碑制に則ったもので、「亀趺(きふ)」と呼ぶ大亀の上に碑文が刻まれた「碑身」が乗り、上部に龍2匹の飾りを付けたもの。高さは台座を含めると約3.5m。碑文は徳川幕府の儒官大学頭として有名な林信篤の手によるもので、格調の高い漢文で藩主の功績が刻まれている。

   

 亀趺に乗る碑の建立は中国で随・唐代に流行、日本には江戸時代に入って伝えられ、黄檗宗系の墓所に多く建立された。ただ中国では前代の業績を記した碑文を削ったり、壊したりする風潮もあって、完全な形で残っているものはあまりないという。長田氏は「現在、市の文化財に指定されているが、国指定でもいいくらい貴重なもの」と指摘する。

 矢田寺の十三仏は1997年、大門坊の墓地の地下に埋まっていたところを発見された。像身は高さ1.5mで、虚空蔵菩薩など12仏が配置され、左下に「光秀」と刻まれている。この銘から明智光秀が建立したのではないかとの説もあるが、長田氏は郡山城主、豊臣秀長(秀吉の弟)の室(奥方)だった尼僧の光秀(こうしゅう)の銘とみる。光秀はしばしば矢田寺を訪ねており、秀長をはじめ郡山豊臣家の菩提を弔うために奉納したのだろうとしている。

   

 薬園八幡神社の石燈籠2基(上の写真)には安政4年(1857年)の刻銘がある。竿の部分には「安政元年六月十四日夜大地震遁危難依有信他カ建」。安政元年の大地震では大和郡山の町にも甚大な被害が及んだが、かろうじて難を免れた町民が感謝の念を込めて寄進したという。「江戸時代後期の特徴が笠の反りや竿のくびれなどによく表現された優作である」(長田氏)。

 長田氏によると、石燈籠は上部の「笠」や柱部分の「竿」の形で、製作された時代がほぼ判断できるという。笠の形は八角形や六角形など角が多いほど古く、時代が新しくなると簡素化された四角形のものが増えてくる。竿が直立したものは鎌倉時代など古いもので、江戸時代の後期になると竿のくびれが次第に深くなってくるそうだ。

 そうした傾向の中で八幡神社(薬園とは別の神社)の石燈籠は建立が1852年と比較的新しいが、竿が直立した四角形という古風な形なのがユニークという。額安寺の宝篋印塔は鎌倉時代の1260年、「大蔵流」石工の祖といわれる大蔵安清の作。今春、市指定文化財から県文化財に格上げされた。蛭子神社の獅子一対は安政年間(1854~60年)のもので、長田氏は作風から孝明天皇が「日本一の石大工」と讃えた丹波佐吉の作ではないかとみている。


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