く~にゃん雑記帳

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<初代吉田奈良丸> 明治の浪曲界の大家、後継者育成や台本作りに貢献!

2012年11月17日 | 音楽

【法隆寺の南に立派な石碑、だが近づくには柵を乗り越えなくては……】

 法隆寺の南大門(国宝)から南へ参道の松並木を抜けると、車の往来が絶えない国道25号にぶつかる。さらにその南側にも松並木が数十メートル続く。ふと右手を見ると大きな石碑があった。だが、不思議なことにすんなりとは近づけない。松の植樹帯に上がり、柵を乗り越えて行くしかないのだ。石碑が立派な割には〝冷遇〟されている感じ。巨大な自然石には「初代奈良丸之碑」とあった。

     

 説明文によると、奈良丸は嘉永4年(1851年)に現在の広陵町で生まれた。本名は竹谷奈良吉、浪曲(浪花節)界の芸名を吉田奈良丸といった。大阪・千日前で大道芸「チョンガレ(弔歌連)」を聞いて感動、芸で身を立てることを決心する。チョンガレは鈴や錫杖(しゃくじょう)を振りながら早口でうたうもので、当時大流行し浪曲の前身ともいわれた。奈良丸は吉田音丸という浪曲師に弟子入りする。だが、そのうち台本のほとんどを自分で創作するようになり、優美な語りが評判を呼んで奈良丸の下に60人余りの弟子が出入りするようになった。

 その門生の中に広橋広吉(芸名「小奈良」)という優秀な弟子がいた。奈良丸はその小奈良に芸名を譲り、自らは引退し「竹廼家養徳斎」と名乗って門生の養成と台本作りに励む。一方、2代目奈良丸は関西の雄として明治末期から大正時代にかけて、東の桃中軒雲右衛門とともに人気を二分する。妻は浪曲師の初代春野百合子(後に離婚)。養徳斎は1915年元旦に逝去、享年65歳。石碑はその13年後の28年、2代目吉田奈良丸を中心に知人や弟子たちによって建立された。その場所が選ばれたのは40代半ばに法隆寺の近くに転居していたことから、この場所が選ばれた。吉田奈良丸は現在5代目に引き継がれている。

 浪曲に不案内な私にとって、浪曲で思い浮かぶのはせいぜい森の石松の「寿司食いねえ」のフレーズで有名な広沢虎造と、東大卒で芸能界から転進した異色の浪曲師、春野恵子ぐらい。その春野恵子は2代目吉田奈良丸と初代春野百合子の娘である2代目春野百合子の楽屋に押しかけて弟子入りさせてもらったという。演歌歌手の中村美律子もかつて2代目春野百合子の下で浪曲を教わった。そのおかげで歌謡浪曲と呼ばれる「壷坂情話」「瞼の母」といったヒット曲も生まれた。

 たまたま法隆寺周辺を散策する中で目にした初代吉田奈良丸の碑だったが、その初代の存在が時を経て今の春野恵子や中村美律子にもつながっていたというわけだ。そんな過去の経緯や浪曲界の系譜などを垣間見て、この「初代奈良丸之碑」はもう少し温かく見守ってやってもいいのではないか、ふと、そんな気がした。

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