く~にゃん雑記帳

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<倭国女王ヒミコとその時代> 水野正好氏「邪馬台国の王都は大和神社辺り」

2012年11月24日 | 考古・歴史

【奈良市立一条高校人文学科・市民公開フォーラム】

 邪馬台国所在地論争が続く中、奈良市の学園前ホールで23日「倭国女王ヒミコとその時代」をテーマに、市立一条高校人文学科主催の市民公開フォーラムが開かれた。桜井市の纒向遺跡が王都で、箸墓古墳が卑弥呼の王墓なのでは? 関西ではこんな説も飛び交う。だが「大和説」を採る前奈良大学学長の水野正好氏(元興寺文化財研究所所長、写真㊧)はそれらの見方には懐疑的で、「卑弥呼の王都は天理市の大和(おおやまと)神社辺りにあったのではないか」とみている。

  

 所在地論争の鍵となるのが三国志・魏志倭人伝の中の「南至投馬国水行二十日」の解釈。水野氏は他の「畿内説」と同様、「南至」は「東至」の記述ミスで投馬国は吉備(岡山)に当たると主張。そこから「水行十日陸行一月」で邪馬台国があった大和に達するとして、北部九州・吉野ケ里・西都原などにあったとする九州説を否定する。記述ミスの論証の1つとして挙げるのが帰国する小野妹子に付いて中国からやって来た使者裴世清(はいせいせい)の動静。「裴世清は南ではなく東に向かっているのを不審に思い、本当に東でいいのかと何度も念を押している」。

 

     (水野正好氏が推測する卑弥呼の王宮㊧と居館㊨)

 では卑弥呼が王位に就いていた頃、王宮はどこにあったのか。卑弥呼の居館と注目を集めているのが3世紀前半の遺構が見つかった纒向遺跡。だが、水野氏は魏志倭人伝が「楼観城柵」で厳かに守られ1000人の侍女がはべっていたとする卑弥呼の居館にしては「簡素すぎ、信じがたい」として否定的。水野氏は大和神社周辺が居館の有力地とし、中国の古代皇帝が政治や儀式、祭祀を行った「明堂」のような施設を居館としていたのではないかと推測する。そして卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳は卑弥呼を継いだ「台与」の墳墓とみる。

 水野氏に先立ち「邪馬台国の研究はいかに…」をテーマに講演した奈良大学文化財学科教授の酒井龍一氏(上の写真㊨)は「弥生社会は北部九州と畿内を両極とし、北部九州が大陸・半島からの先進的な人・物・情報を入手し、弥生街道を経由して終着点の畿内に到達した。その東にはまだ縄文世界が広がっていた。弥生~古墳時代の過渡期における遺跡の分布状況などから、邪馬台国は畿内にあった」と話した。

 水野氏は文献を基とする歴史考古学、酒井氏は遺跡・遺物を基にした先史考古学の立場から、お二人とも「邪馬台国=畿内説」を主張する。ただ、それでも吉備から卑弥呼の王宮まで「水行十日陸行一月」という魏書の記述が気になる。船で10日はともかく、陸路1カ月もかかるというのはどう解釈したらいいのだろうか。

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