く~にゃん雑記帳

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<鴨長明「方丈記」> 「断捨離のルーツ」東日本大震災を機に再び脚光!

2012年11月19日 | 考古・歴史

【京都産業大・小林一彦教授「完成800年、自らの意志で蘇ってきた」】

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし」――。鴨長明が「方丈記」(1212年)を著して丸800年。昨年の未曾有の大災害「3.11」を機に、「方丈記」が改めて注目を集めている。京都府精華町で15日開かれた「断捨離のルーツ 方丈記を読む」をテーマにした図書館文学講座。講師の京都産業大学文化学部の小林一彦教授(写真)は「大震災で安全神話が崩れ、人間の力の小ささを思い知らされた。方丈記は自らの意志をもって蘇ってきたという気がする」と話す。

   

 鴨長明は1155年、下鴨神社の禰宜の次男として誕生、7歳の時には従五位下(じゅごいのげ)に叙せられる。いわば貴族である。とても裕福な恵まれた中で育ったわけだ。だが、安元の大火、治承の辻風(竜巻)、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震などに遭遇するうちに人の世のはかなさを痛感し、晩年は日野山に「広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり」という4畳半ほどの簡素な庵を結び、隠遁生活を送る。そして1216年、62歳で没した。

   「方丈」の推測図

 「長明が生まれたときはいわばバブルの最盛期。しかし、その後の天変地異や人災によって人も住まいも翻弄されていく。そのうえ鎌倉に新興勢力が台頭し、京都中心の時代が終わるのではないかという不安に包まれていた。今の時代に非常に似ているのではないか」(小林教授)。方丈記は天変地異について詳しく記し、同時に「すなはちは、人みなあぢきなき(はかない)事をのべて、いささか心の濁り(欲望や邪心)もうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし」と、風化と心持ちの変化を指摘する。

 そして数々の災厄の体験を通じて次のように記す。「財あれば、恐れ多く、貧しければ、うらみ切なり。人をたのめば、身他の有なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身くるし。したかはねば、狂せるに似たり」。この部分から思い起こされるのが夏目漱石の「草枕」の一節「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。

 小林教授によると、漱石は学生時代に「方丈記」を初めて英訳、世界に紹介しており、「方丈記」は「草枕」に明らかに影響を与えているという。このほかに鴨長明に心酔、尊敬していた作家として芥川龍之介、無頼派と呼ばれた坂口安吾や檀一雄、中原中也、内田百らを挙げる。檀一雄はエッセー「流れる」の中で「身のまわりには、何もないがいい。……火事だの、泥棒だの、地震だの……と、おびえるのは、みんな、そのガラクタのオ化ケと、心中の気でいるからだ」と記した。

 長明は「方丈記」にこう記す。「かむな(ヤドカリ)は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人を恐るるがゆゑなり。我またかくのごとし。事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず(走らず)、ただ静かなるを望みとし、憂へ無きを楽しみとす」「それ三界(欲界・色界・無色界)はただ心一つなり。……おのづから都に出でて、身の乞丐(こつがい=乞食)となれる事を恥づといへども、帰りてここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ」。そして「仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり」と、何事にも執着心を持ってはならないと説く。

 小林教授は「長明は方丈記を通して、生きていくうえで本当に大切なものは何だろうかと問いかけている」という。「毎年3万人もの自殺者を生む日本は生き方、暮らし方がどこかおかしいのではないか。(方丈記などの)古典から学ぶべきことは多い。つまらないものはごっそり捨て、心を大事に生きていきたい。捨てるには勇気がいる。だが捨ててはいけないものもいくつかある。それが何かを考える日が1年に1日あってもいいのではないか」。今年から11月1日が「古典の日」と制定された。

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