【幕末の奈良奉行にちなむ老木が5本】
奈良市内有数の桜の名所、佐保川沿いの桜並木が満開になった。佐保川は春日原生林を水源とし奈良市内を貫流、大和郡山市で大和川に注ぐ。桜並木はその川に沿って1000本近くあり、5km以上も続く。花見客でにぎわう佐保川小学校の前から東へ、JRの鉄橋を越えてすぐの所に、ソメイヨシノの老木が5本ある。幕末の奈良奉行、川路聖謨(としあきら)の名から「川路桜」と呼ばれる。
川路は1801年生まれで、下級武士から身を立て佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行、大坂東町奉行、勘定奉行、外国奉行を務めた。安政元年(1854年)には日露交渉に手腕を発揮、下田で日露和親条約に調印している。だが、1868年3月の江戸開城の日、割腹・短銃自殺を図って果てた。幕臣として江戸幕府に殉じたともいわれる。
奈良奉行を務めたのは1846年1月から約5年半。その間、川路は興福寺や東大寺、町の有力者らに呼びかけ、町ぐるみの緑化運動を展開。数千本の桜や楓の苗木を若草山の山麓から佐保川や高円山などにかけて植樹した。「川路桜」はその時の名残といわれ、地元の「佐保川を美しくする会」「川路桜保存会」の方々がお世話している。
奈良・猿沢の池から興福寺の境内に続く「五十二段」。それを登りきった所に嘉永3年(1850年)建立の「植桜楓之碑」が立つ。その碑に川路はこう刻んだ。「桜も楓も歳月がたてば枯れる心配がなきにしもあらず。後世の人たちがこれを補ってくれるならば、今日遊観の楽しみは百世の後までも替わらないであろう。これが余の後人に望むところでもある」。
数年前、大分県日田市を訪れた際、ふらっと「天領日田資料館」に入った。そこに川路が愛用していたという兜が展示されているのを見てびっくり。「川路桜」を通じ奈良の恩人・川路に思いをはせていたが、その当時、川路が日田出身という知識を持ち合わせていなかった。それだけに、奈良から遠いこの地で偶然にもその恩人の兜に出会えたことは感激の一言だった。