心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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灯り

2016年01月20日 | ほんのすこし
冬は案外明るいものです。
というのも、白い雪が降り積もると道の両側に積もった白さや屋根に重なった雪の白さで、それまで午後5時になったら、真っ暗だった世界がなんとなく明るく感じられるのです。
これも雪国ならではのことなのでしょう。
夜になっていく、夕暮れから夜にかけて世界がとばりを降ろして行く、そこに雪があることでなんとなくポッとしたものがあるような気がします。雪自体は冷たいのですが、そこに雪があることでほのかに明るくて、世の中が夜のとばりに覆われてしまっても、雪さえあればしのげるかもしれないとまで思ってしまうほどです。

雪の明るさは暖かさとは程遠いのですが、灯りというのは見ているだけで暖かいものです。
大好きな童話に新見南吉の『手ぶくろを買いに』があります。その中に、子狐が母キツネに言われて町まで自分の手袋を買いに行くのですが、町の灯りがポツポツと灯っているさまが描かれています。
あぁ、灯りってこんなに暖かいものなんだって思いました。寒い中、こんもりした雪をこいで歩いていく子狐にとって目の前に見える町の灯りはなんて暖かいものだったんだろうって。

灯りって、そこにあるだけでなんだか心がポッとします。
そして灯りのような人とのつながりがあると思えることが、どれだけ生きて行くために必要なことかってことも思います。
現実ではないと非難する方もいますが、わたしにとってここは大事な場所、そんな大事な場所を暖めていけたら、ポッと灯りのような言葉も生まれるのかな……

そこに在るもの

2016年01月20日 | ほんのすこし
時間は刻一刻と過ぎて行く。
時間というものは平等だ。たった今、この世界で時間を享受している人々、ある者はベッドの上でこんこんと眠りについている、ある者は深い海に潜っている、ある者は長い道のりを歩き続けている、ある者は草むらから獲物を狙って息をひそめている……
全世界の人々が時間軸の中でうごめいている。
それぞれがそれぞれの活動範囲の中で。
例え明日にその命が約束されていないとしても、今この時に生きているものにとっては時間に存在するということは平等なのだと感じる。

同じ時間でも、子どもの頃はもっとゆるやかに感じたものだ。夕暮れに太い丸太ん棒の上に座り、広い空がやがて色をオレンジに染めて行くときをただただゆっくりと味わっていた。明日は何が起きるかなんて想像もつかなかった。願わくば運動会が中止になってくれればいいと思うことが何度かあったりしたが。
毎日がどこかしら違っていて、どこかしら同じだった。なんだかわからないものに期待していた自分がいた。

今は?
毎日が期待に満ち溢れているなんてことは少しも感じられないまま、一日があっという間に暮れて行く。一日という時間の中で自分がいた証をどこにも見出せないまま、夜には後悔という言葉を思い出すことが増えた。
自分が自分に期待してどうする?
最初から何もない自分に何を見出そうとしているんだ?
そんなぐだぐだな気持ちに喝を入れたかった。

ただそこに在る。
それだけでいいのだと、自分を抱きしめたかった。
それが甘えだろうとかまわない。
大事なのは自分が今こうしてここにいるということ。
確かに生きているということ。
そこに在るものに感傷や希望を持ちつつも、まだ前に進もうとする自分がいるということ。

少しずつ頭をもたげて、ぼんやりとした気分を払しょくできるようこの濁った空気を入れ替えていかなくては。

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癒されるもの。
ただそこに在るというだけで。

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